その後の三宅島について少し書き述べたい。
2000年6月からはじまった三宅島雄山噴火により、同年9月に全島避難命令が出て、
全島民が島外へと避難した。そして、2005年2月1日に避難指示は解除され、
4年半にも及んだ避難生活も一応の終止符を打った。
4月には三宅島小中学校も開校したが、依然として島の人々は火山性ガスを防止する為の
マスクを手放して生活を送ることはできない。
その当時、おいらは食い入るようにテレビのニュースにかじり付いて、避難民の方々を見ていた。
おかみさんやAYAはいったいどうなったのだろうか?と。
ある日の通勤途中、駅の改札近くで三宅島の人々を支援するための共同募金を募っていた。
おいらは正義の味方だから、財布に入っていた小銭全部を寄付した。
寄付しかできない正義の味方も考えものだなって思いながら。
避難勧告が解除された2005年の2月、おいらはフィリピンのマニラ国際空港に一人降り立った。
事の発端はやっぱりヴァカンスである。
友達のT氏からボラカイ島にダイビングしに行かないかと誘われたのだ。
その誘いを受けた時、二つ返事で了承した。
勿論、ダイビング自体にも魅力を感じたのだが、やはり一度どうしてもフィリピンに
行ってみたかったのだ。
AYAの故郷に。
日本航空のジャンボジェット機に乗って、成田からマニラまで約5時間。
普通の観光客であるおいらは、簡単にフィリピンへと入国することができた。
それはAYAが10年間帰国を待ち焦がれている心境からすると、あっけないほど
何も事件は起きなかった。
三宅島に限らず、この東京近辺の島々には同じような境遇の女性が数多くいるという。
同じようにパスポートを取り上げられ、どこにも行き場がない異国の女性が格安で
簡単に逃げられる場所が伊豆七島なのである。
たった数時間で彼女達の過ごしてきた南国の環境にそっくりな島々が。
安住できない彼女たち【島女】に安らかなる夜を。