「+Diary:s」 blog no.9 - by okumiya.
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「2004年08月」のアーカイブ
2004.08.30 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

パキスタン北部の「桃源郷」より、プロペラ機で下山(この飛行機からの眺めはかなりなものです、すばらしかったです)。ラホールに1泊し、翌朝パキスタン−インド国境を目指しました。

ラホール駅前より乗合バスに乗って、国境の町ワガまでは1時間ほど。ラホールを出てからしばらくは、通りは商店やら学校やらでとても賑わっていました。パキスタンの現大統領(ムシャラフ氏だったか)は、教育にたいへん力を入れているみたいで、わが国を引き合いに出し「日本には大学が5000校もある。なのにパキスタンは・・・」というような事を言っているらしいです(パキスタン人に「日本に大学は何校あるのだ?」なんて聞かれて、とても困りました)。まあ、そのせいかどうかはわかりませんが、とにかく通りには学校がたいへん目に付きました。

国境手前の最後の町らしき場所(ここがおそらくワガの中心地なのでしょう)で、ラホールからの客はすべて降りてしまって、かわりに大きなズタ袋に日用品を満載にした若い男と少年の2人組み(彼らは日用品のほか別のズタ袋に巨大な氷の塊を入れてバスで運んでいた、4袋も)、古い大きな扇風機を担いだ男、プロパンガスのボンベを持った少年などなど、それぞれ町での使命をはたし帰宅すべしといった風の人々が乗り込んできました。こうなると、バスはもう人々のライフラインそのものといった感じ。

最後の町から10分ほどで、パキスタン側の入国管理事務所に到着。途中車窓から、パキスタン軍の駐屯地らしき場所も見えました。なにしろ壁がすべて迷彩模様なので、間違いのないところでしょう。横には土嚢を積んだ射撃訓練場のようなところもありましたが、ここには黒くずんぐりとした体格の牛たちが、退屈そうにうろうろとしていました。緊張感らしきものは皆無。

しかしまあ、こちらはそれなりの緊張感を持って、パキスタン出国手続きに向かいます。別になにもやましいところはないけれど、出入国ってなんとなく緊張しますね。パキスタン−インドの国境越えは結構厳しい(とくにインド側が)、なんてガイドブックに書いてあったりもして。

パキスタン出国のパスポートチェックはすんなりといくものの(しかし事務員から「チェンジマネーしないか」と声をかけられた。こういうのはもちろん違法ですよねぇ?)、通関手続きで少々てこずりました。5、6人の職員にバックパックの中身を全部ひっくり返され調べられました。

通関手続きをめぐってはいろいろよくない噂も聞いていて、たとえば身に覚えのない「白い粉」がなぜか出てきて、見逃してやる代わりに金をよこせ、というようなこととか、そこまでひどくなくても、ちょっとした品物(日本製のペンやら)を上納するというようなことは、結構あるらしい。いやだなあ、と思っていたら、案の定、制服を着た一番えらそうな男が僕の荷物の中から小さな折りたたみナイフを見つけ出し、「これは危険だから没収する」と言い出しました。飛行機の手荷物検査ならともかく、チーズを切るのがやっとというような小さなナイフを国境で没収されたという話は聞いたことがありません。「ノープロブレムでしょ?」と食い下がりましたが、まったく相手にされず。制服の男はナイフだけ見つけると、あとはもういいよ、という感じで去っていきました。ほかの男たちも「じゃあね、パスポートをなくさないようにね」なんて捨て台詞をはいて、みんないなくなりました。

がらんとした部屋(かなり広かった)で、無残にもぶちまけられた荷物をひとりまたパッキングしなおすというのは、かなり惨めな気分です。フンザで買ったみやげ物の袋なんて、びりびりに破かれてるし。そして、ぼくの折りたたみナイフ! たいした品物じゃないけど、学生時代に旅行先(パリ)で買った、それなりに愛着のあるナイフだったのです。しかし、いまとなっては、ぼくはこう思うことにします。
「ノープロブレム。なにしろ、無事出国できたじゃないか。あのナイフはパキスタンにプレゼントしたのさ!」

・・・というわけで、パキスタンという国には、最初っから最後までやられっぱなしでした。ほんと、よくも悪くも。

さてさて。

出国手続きをすませたものの、国境ライン(ボーダー)まではそこから徒歩で5分くらい、そこからインド側の出入国事務所までも歩いて5分くらいかかります。まあ、たいした距離ではないのですが、何しろ炎天下で(この日の最高気温は39度)、全身から汗が噴き出し頭がちょっとくらくらするくらいの暑さです。

この国境の道では、ちょっと興味深い光景を見ました。

パキスタン側の事務所近くにダンボールを満載した大きなトラックがとまっていて、そこで積荷を下ろしていました。下ろされた積荷は、荷物運びの男たちが頭の上に載せて国境ラインまで運んでいきます。頭上に2つダンボールを載せインド側に向かう男たちの行列、そしてまたトラックへ戻ってくる男たちの行列。例えはよくないかも知れないけれど、それはこっちの穴からあっちの穴へ引越しをする働きアリの行列のように見えました。

国境ラインの向こうでは、インド側の荷物運び人が、同じように行列をなして待機しています。国境ライン上には、「これがすなわち国境である」という証として20センチ幅くらいの白い線が引かれていて、この線をはさんで、パキスタン人とインド人が、お互い線を踏み越さないように、ちょっと背伸びをするようにして、荷物の受け渡しをしていました。このとき、僕は思いました。「国境って、いったいなんだろう?」

そういった荷物運びの男たちに混ざって、炎天下の国境の道をぜいぜい歩き、汗だくでインド側の事務所に到着。室内には、「おつかれさんでした!」というように巨大な扇風機がうなりをあげていて、熱でほてった旅人を強烈に涼ませてくれます。実にありがたい。

そして、インド側の手続きは実にスムーズで、シンプルで、合理的で、近代的でした。良心的ですらありました。こちらとしては、もう一度荷物をぶちまけること(そしてまたパッキングすること)も覚悟していたのですが、そういったこともありませんでした。そんなわけで、ぼくは単純にもこう思いました。「ぼく、インド、好き!」。

こうして、晴れてインド入国。

事務所を出たところには売店があって、ここでちょっと凍ってる冷え冷えのコカコーラを飲みました。最高にうまかった! 一昔前のキャッチコピー、「気分さわやか!」ってやつですね。しばらくすると、子供が2人「コーラちょうだいな」と言い寄ってきました。普段ならその手の物乞いはまったく無視するのですが、なにしろ気分さわやか!なもので、気前よく1本ご馳走してあげました。すると、売店の主人の自称「ジミー大西」氏(本当にそっくりなので大笑い)が、かわりに自分の右手首に巻いていたアクセサリーを僕にプレゼントしてくれました。単純なわたくしはまたもやこう思いました。「ぼく、インド、大好き!」。

・・・以上、長々と国境越えについて書いてしまいました。
ここからは、インド側の最初の都市、アムリトサルについて書きましょう。

アムリトサルは、国境からタクシーで1時間ほど。パンジャーブ州の州都です。このあたりは1947年の印パ分離独立以前は、パキスタン側のラホールとともに、インドでも有数の裕福な地域とされていましたが、分離独立の混乱にあたり、多くの血が流された地域でもあります。もともと、アムリトサルとラホールは同じ州に属していたんですね。それがばっさり、ある日を境に違う国になってしまった、ということのようです。しかし、「横浜と川崎は今日から別の国でーす」といわれたって、それはとても困るだろうなと思います。「今日からこの線を境に、荷物は手渡ししてくださーい」といわれたって。

また、アムリトサルは、シク教徒の聖地としても有名です。

シク教徒のルックスは大変に個性的で、かつてアントニオ猪木と数々の死闘を繰り広げたタイガー・ジェット・シンのような格好をしています。頭にはターバン(ケース)、右手首には鉄の腕輪(カーラ)、ひざから下を出した短パンのようなパンツ(カッチャ)をはき、手には短剣(クーリパン)か槍。さらにこれらに櫛(カンガー)をあわせると、シク教徒必携の5K、ということになるらしいです。さすがに槍をもって歩いている人はごく少数ですが(しかし確かに槍を持って歩いている人がいるのです、この町には)、国境から乗せてもらったタクシーの運ちゃんも黄色いターバンを巻いてたし、多くの人々が熱心なシク教徒であることは間違いないようです。

そして、シク教の総本山、通称ゴールデン・テンプル(正式にはダルバール・サーヒブ)。中央に黄金に輝く本殿。それほど大きくはないけれど、何しろ黄金色で大変に存在感があります。本殿の周りは正方形の堀になっていて、シク教徒はここで水につかったり祈りをささげたりしています。さらにそのまわりは白い大理石の回廊と宗教的な建物の数々。回廊をぐるりとひとまわりすると、さまざまな角度から黄金の本殿と白い大理石の建物郡を眺めることができ、たいへんに美しいです。

ゴールデン・テンプルの周囲の旧市街も大変におもしろい。クリスマスの飾りで使う金色のモールようなものが通りに張り巡らされていて、風が吹くとこれがかさかさと音を立てながら輝いて、不思議な雰囲気をかもし出します。お祭りの中にいるみたい。

それから町は、おどろいたことに、きれいなのです。パキスタンのゴミにまみれた通りを見てきたものにとって、それはほんとうにとても新鮮な驚きでした。だって、朝には通りを掃除している人たちがいるのです!掃除! インドはひょっとしてパキスタン以上に汚いだろう、なんて考えていた自分、ほんともうしわけない。

もうちょっと正確にいうと、やはり旧市街の下水事情はよくないようです。どぶは汚い。でも道路は非常にクリーン(土ぼこりもない)で、朝は店の前を掃除する人々がいるし、その集めたゴミを回収するリアカーみたいのが、狭い旧市街の通りを巡回していたりします。つまり、そこには、町をきれいにしようという意志が確実に存在するのです。そして、意志の存在するところ、かならずや成果はあらわれるものなのです! ・・・そんなわけで、妙に感動してしまいました。

アムリトサルはインドのはずれに位置し、地理的には不便なところにあるので、パキスタンに抜ける(あるいはパキスタンからやってくる)人々、もしくはシク教徒以外に、訪れる人は少ないのではないかと思います。でも、来てみるとけっこう楽しめると思いますよ。とくにゴールデン・テンプル界隈の雰囲気は、イスラムとは違った、もう少し俗っぽい賑やかさがあって。

この先のヒンドゥーの町々も、楽しみになってきました。

2004.08.26 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ギルギットよりカラコルム・ハイウェイをさらに3時間ほど国境側に北上、美しく静かな渓谷の村、フンザにやってきました。

現代の「桃源郷」などと形容されるこの地ですが、実際に滞在してみると、それがまったく大げさにも不愉快にも感じられません。背の高いポプラの木やヒメリンゴ・アンズなどの果樹で緑色に彩られた渓谷。周囲の乾いた岩山の隙間からは、峰に雪をいただいた白く輝く7000メートル級の山々を望むことができます。(フンザの美しさについては、あとは写真に譲ることにします)

フンザの人々は、民族的には他のパキスタン人と異なり、独自の言語(ブルシャスキー語)を話します。実際、この地を支配していた最後の王が1974年に退位するまで、フンザ地域は独立国家でした(いまでも彼らは自分たちのことを「フンザ人」と自称します)。宗教的にはイスラム教イスマイール派で、この宗派はスンニー派などに比べて戒律がゆるいため、滞在していてもあまりイスラムの国だという感じがしません(アザーンも流れない)。人々はどことなくのんびりしていて、素朴な感じです。

フンザでは、ついに酒も飲みました。イスラムにもかかわらず、フンザの人々は昔からぶどう酒や果実酒を自家製造してて(王様の住んでいたという砦跡にはぶどう酒を貯蔵する場所がちゃんとあった)、現在もかなり日常的に飲酒しているようです。今回、その自家製果実酒を飲むことができました。

アンズやリンゴから造った酒とのことなので「杏露酒」みたいな色と味を想像してたのですが、見た目はまったくの透明(地元の人は「フンザウォーター」と呼んでた)。味もほとんど果実の味はしません。ちょうど、日本の焼酎みたいなものでしょうか。

薦められた酒は一気に飲みほす、というのがフンザスタイルだそうで、みんな、その焼酎もどきをくいっ、くいっと飲んでました。自分はほんとうのところ、焼酎がとても苦手なので、いやーまいったなぁとは思いました。しかし、この期に及んで勧められた酒を断るなんて、私個人のみならず日本人の名誉にかかわります。ので、ちゃーんとイッキしてきました。翌日はしっかり二日酔いでした。

混沌のパキスタンにあって、フンザは本当にオアシスのようなところでした。人々も自然も。沈没したい方のみならず、普段忙しい日常を送っている多くの人々にこそ、一度訪れることをお勧めしたいような気がします。(しかし、この静かな村々がそっとそのままであってほしいとも思う・・・)

2004.08.24 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

パキスタン北部地域について、以下ガイドブックの記述をそのまま転載します。

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パキスタン北部はインド、中国、アフガニスタンに囲まれ、東はヒマラヤ山脈、西はヒンズークシの山々、北はパミール高原が広がる世界有数の山岳地帯である。インダス川の水はここから流れ落ちている。この地域は他の4つの州と異なり、中央政府の直轄化にある。1947年の印パ分離独立に伴い、この地域を含むカシミールの帰属が問題となり、第一次印=パ戦争に至る。事実上の支配地域は、第二次印=パ戦争でほぼ固まっているが、現在も互いに領有権を主張している。
−−−

・・・と、政治的には現在も微妙な地域ではあるのですが、6000・7000メートル級の美しくも険しい山々と、それらに囲まれるようにして人々がひっそりと暮らす村々は、多くの登山家や旅行者・バックパッカーにとっての憧れの地のひとつとなっています。

パキスタン北部地域で最大の町ギルギットへは、ラワールピンディーよりカラコルム・ハイウェイの山道をバスで行くこと16時間。カラコルム・ハイウェイとは、北部の山々の間を縫うようにしてパキスタンと中国とを結ぶ幹線道路で、20年ほどの歳月と1000名弱の犠牲者を経て1978年に開通しました。この道路のおかげで一介の旅行者でも北部地域を気軽に訪れることが出来るようになったわけですが、いかんせん道路状態は悪く、ところどころに小さな土砂崩れがあって(崖を切り崩して道路にしているのだから仕方がない)、しかしバスはその上を猛スピードで突っ走っていくものだから、実際にはかなりハードな道程です。控えめにいって、とっっっても揺れます。「がたごと」ではなく「ガシャンガシャン」金属的な音がします。朝、ギルギットに到着した時には、側頭部には複数のたんこぶができ(寝てる間に窓の手すりにぶつけたらしい)、床に脱いでおいた靴は運転席近くまで転がっていました。やれやれ。

ぐるり360度を茶色い岩肌の山々に囲まれたギルギットの町は、想像していたよりも大きな町でした。ここは中国との交易の拠点でもあって、町の西の外れには中国からの物産(毛布や食器など)を売っている地区もあります。しかしともあれ、「下界」の喧騒とはうってかわって、静かで涼しくて過ごしやすい町です。

ギルギットには有名な日本人宿があって、今回はそこに宿泊しました。日本人宿とは、日本人旅行者が多く宿泊する宿のことで、たいていは日本語の本があり、日本語で書かれた情報ノートがあり、場所によっては日本食が食べられたりします。なにより、日本人旅行者が多くいるので、日本語で話が出来るわけです。日本人宿は世界の各地にあるらしいのですが、ぼくはこれまで、1度しかその手の宿に泊まった事はありませんでした(トルコで利用した、そして両腕をこっぴどくダニに食われた)。とくに積極的に避けていたわけではないのですが、とくに積極的に利用しようという理由もなくて(日本語の本は魅力的だけれど、気の合わない人とべたべたと時間を過ごさなきゃいけない事になったらいやだな、と思って。だから、どちらかといえば避けていたかもしれない)。

ともあれ、今回はその日本人宿を利用しました。

宿に到着すると、受付前の小さなロビーにはパンケーキのようなものを食べている若い女性。日当たりの良い庭でベンチでひなたぼっこしながら本を読んでいる若い男性。どちらも洋服ではなくて、パキスタン人と同じ白いシャルワーズ姿。

廊下の本棚には、古い「地球の歩き方」(インド編が多かった。インドからパキスタンにぬけたパッカーがここにおいていくのでしょう)、「バカボンド」「サバイバル」「寄生獣」などのマンガ、日に焼けた雑誌、小説、聖書にコーラン。

僕の部屋は、ロビー横のシングルルーム・トイレシャワー付き(ただし水シャワー)。1泊150ルピー(約300円)。不潔ではないけれど、かといってきれいでもない、典型的な安宿。ロビーから古い昔の日本のフォークソングのカセットテープが流れてきて(壁が薄くて音が丸聞こえなのです)、女性が「これはなつかしいなー」なんて言っています。

とにかく、時間の流れがここだけ違うのじゃないかという気がしました。そして、この時間の流れが居心地よくなったら、沈没なのでしょう。しかし僕は幸か不幸か、目的地とタイムリミットのある旅をしているので、何としても沈没するわけにはいかないのです(半分は冗談ですけれど)。

昼間は町を歩き、夜になってから帰宿。ロビーでは、若い男女が向かい合わせに座って、なにやら話をしていました。ぼくは軽く挨拶をして、自分の部屋へ入りました。

ところが、ぼくの部屋からは、ロビーの男女の会話が筒抜け状態。なんとなくこちらの方が気まずい気がして、ロビーに出て会話に加わろうかとも思ったのですが、男性の方が自分の旅行自慢らしき事を話していたので(ケニアでどうした、エジプトがどうだ、のような)、ちょっとうんざりして、そのまま部屋で黙っていました。

2人の会話は、時間とともにだんだんお互いの緊張を解いていき、より率直な、等身大の内容に変わっていきました。ぼくは、いよいよ盗み聞きをしているような格好になってしまったのですが、そのときには正直なところ、もうその会話から耳をそむけることができなくなってしまっていました。

男性、もうすぐ30歳。私立高校の教師。6年前に長い旅行(たぶん世界一周)を経験。その際に立ち寄り沈没したこの地に久しぶりに帰ってきた。今回は1ヶ月半滞在。明日、日本への帰国の途に。女性、28歳。小児科医。世界一周旅行中。中国、ネパール、インドを経て、現在パキスタン。旅行3ヶ月目。現在、この地から動けない模様。

まず、彼らが同年代だという事に、ぼくははげしく動揺しました。それから、彼らのキャリアというか、生き様というか、人生のスタイルに、嫉妬のようなものを感じました。

もちろん、それぞれのひとにはそれぞれの人生のスタイルがあって、それに自信をもっているならば、他の人の人生のスタイルに嫉妬する必然性など、全くないのです。全く。そのことに気がついて、さらにぼくはひどく落ち込みました。

こうした類のもやもやは、たぶん自分の中には、今回の旅行の前から潜在的にあったのですね。動機の一つとして。今いる場所から一度飛び出してみれば、何かが変わるかもしれない。なにかわかるかもしれない。結果として、変わったこともわかったことも、たぶんたくさんあるけれど、しかし一番肝心な部分については「わからないということがわかった」というような、まったく頼りなく歯がゆい状態なのだ、ということを強烈に突きつけられたような気がしました。

あれれ、日本人宿の話なのか、悩み告白コーナーなのか??

2004.08.21 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ラホールは、パキスタン第二の都市で、インドとの国境から西に24キロのところに位置しています。ムガール帝国の時代(16〜18世紀)には、文化的な中心として多くの宮殿やモスクが建てられました。その名残なのでしょう、現在のパキスタンにおいても、ラホールは文化や教育の中心的な都市だそうです。

確かにラホールは、クエッタに比べると格段に都会的でモダンな印象です。駅前や旧市街は、まあ相変わらずごちゃごちゃしているけれど、南の新市街のあたりはとても落ち着いていて、芝生の公園では若者たちがクリケットに夢中になっています。ちなみに、パキスタン人にとってのクリケットは、日本人にとっての野球みたいなものらしい。(テレビでも、オリンピックよりクリケットの国際試合のほうが優先される)

とはいえ、観光的な見所はやはり、旧市街側にあるバードシャヒー・モスクやラホール・フォート(城砦)、となるでしょう。どちらも、ムガール帝国時代の建物です。
個人的には、バードシャヒー・モスクがおすすめ。イランのモスクはブルーを基調としたタイルによるモザイク模様が特徴的ですが、ここのモスクはじつにシンプルな茶色ベース。派手さはないのですが、不思議と心が落ち着きます。

ラホール旧市街界隈を散策中、ざーっと雨に見舞われました。日本の夕立ちみたいなもので、雨自体はすぐにやんだのですが、その後の道路事情にいささか問題がありました。ラホールもやはり(クエッタほどではないにせよ)下水事情がよくないようで、ところどころで汚水が溢れ出し歩行困難に。ビーチサンダルの身にはいささか厳しい。しかしまあ、こんなことをいちいち気にしていたら、この先やっていけないのでしょう。

あとラホールの印象としては、暑い!です。イランもクエッタも高地で乾燥しているので、日中の日差しは大変厳しいけれど、日陰に入って風にでもあたればかなりしのげます。しかしラホールは、まるで東京のような暑さ(という喩えもなんですけど)。じっとりとして、逃れようのない暑さです。イスラム圏なので短パンはNGだし。雨季でこれだから、酷暑の時期はいったいどんななんだろう・・・。

2004.08.19 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

陸路でイラン−パキスタン国境を越え、パキスタン側の国境の町タフタンよりバスにゆられること18時間、バローチスタン州の州都クエッタにやってきました。

バローチスタン州はパキスタン西部に位置し、面積にして国土の3分の1ほどはあろうかという大きな州なのですが、その大半はイラン高原の荒涼とした砂漠地帯(さらさらな砂の砂漠ではなく、乾いた砂利や岩石が延々続く殺風景な大地)。タフタンからクエッタまでのあいだ町らしい町はなく、ときどき、チャイと簡単な食事を振る舞う休憩所のようなところがあるだけです。われわれの行く一本道と平行して列車の線路も東西に走っているのですが、肝心の列車は月に2本(!)とのこと。そのため人々はみなバスで行き来をする事になるのですが、ご想像の通り、その道程はお世辞にも快適とはいえません。しかし、休憩所に立ち寄って殺伐とした風景の中チャイなど飲んでいると、ああ自分はいま旅をしているなあ、なんて実感することが出来たりします。砂漠に沈む夕日は、空が砂埃で煙っているためでしょうか、周囲を茜色に染める事はなく、まるで満月のようにいつまでも白く光っていました。

そんなこんなで、一晩バスに揺られ翌朝クエッタに到着。バスの屋根に括り付けられていたバックパックもどうやら無事でひと安心(パキスタンでは大きな荷物はみなバスの天井に括り付けるのです)。バスターミナルからスズキ(軽トラックを改造した乗合タクシー)に乗り込んで市街へ。

さて、市街に出て・・・。ぼくは心底、衝撃を受けました。

この驚きを言葉で説明するのは、ぼくの国語力ではとても難しいのですが、端的にいってトルコともイランとも町の雰囲気が全く違いました。トルコもイランも、人の温かさやバザールの活気など、間違いなく「アジア」ではあったのですが、どこか近代的というか西洋的というか(誤解を恐れずにいえば)整然とした「清潔」な部分があったように思います。しかしここでは、これまでヨーロッパからトルコ・イランまで一貫してあったその「清潔」さのようなものが、ついに姿を消したように感じました。そして、この地の根底に流れている精神は、きっとこのままインドや東南アジアの国々へとつながっているのだろうな、と漠然と感じました。

感じたイメージを先にいうと上記のようになるのですが、具体的に町の様子としては、まずゴミがすごーく目に付きます。われわれの感覚からすると単純に汚い。食べ物の屋台などは、その日に出た生ゴミをそのまま路上に捨てていってしまうみたいだし、バザールを歩いているとぺしゃんこに干乾びたニワトリの死骸があるし(何日放置されているのだ?)、下水事情がよくないようで路肩のドブ(流れてないで溜まっている)はかなりの悪臭。その悪臭放つドブの真横で食堂が営業していたり。

道路は、これまたごちゃごちゃしていて、パキスタン名物のギンギラトラックやらギンギラバスやら、これまたギンギラなオートリキシャやら、スズキやら、チャリンコやら、ロバ(ついに登場)やら、果物の屋台やら、実にさまざまな乗り物が、さまざまな音を立て、さまざまなスピードで(ロバで軽く渋滞する)、たいていは人や荷物を満載にして、めいめい縦横無尽に行くわけです。この混乱ぶり・ミクスチャーぶりをみていると、なにやらこちらまで興奮して血のたぎってくる思いさえします。

この「何でもあり」感は、人々の様子についても同様です。バザールのヤミ両替屋の胡散臭さとか、むき出しの生肉が軒先にぶら下がるバザールとか、暴走するロバ(あれで走ると結構速いのです)にしがみついて向こうに消え去った少年とか、四つんばいで歩く片足の不自由なおじいさんとか。いろんな人がいる。たくましくいる。

ぼくは旅を通じて、漠然とひとつ結論じみたものとして「いろいろなところにいろいろな人が生きている」ということを感じていました。いままで行ったことのなかった土地にも確かにいろんな生活があった。

そして今回さらに、この地で感じたのは「もしこれがぼくの世界だとしたら、ぼくは何をして生きているだろうか」ということでした。ぼくはこの世界で、はたしてたくましく生きていくことができるだろうか。

2004.08.17 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

バムという小さな町の外れには、「アルゲ・バム」という不思議な遺跡があります。

アルゲ・バムはかつて、東西交易のポイントとして栄えていた城下町でした(「アルグ」とは「城」の意)。しかし、1722年エスファハンを目指して進撃するアフガン軍のまえに、人々は町を放棄して退散。その後人々はこの町に戻ることなく、したがってアルゲ・バムはそのまま壮大な廃虚となりました。現在でも、土と日干しレンガで形作られた当時の町並みがそのままに残っていて、イラン観光の名所のひとつとなっています。ちなみに、NHK版の「深夜特急」でもアルゲ・バムは取り上げられていて、乾いた土の城と城下町の印象は確かに強烈で、僕もぜひ訪れてみたい場所の一つでした。

ところが・・・

僕自身バムへ向かう直前まで知らなかったのですが、なんと数ヶ月前にバムのあたりで大地震があったそうで、その影響で現在のバムの町はかつての「神戸のような状態」(とあるバックパッカーが形容していた)でした。日干しレンガの家々は地震にもろく、したがってほとんどが瓦解してしまったそうです。一部復旧されてはいるものの、多くの人々はいまもテントでの生活を余儀なくされています。ホテルも全滅とのこと。

そして、壮大な遺跡アルゲ・バムも、甚大な被害を受けていました。城下町は跡形もなく全壊。かつては堂々たる姿をしていたアルグも無残に崩れ去り、一部土台を残すのみでした。ガイドブックの写真と照らし合わせて、「これがこうなってしまったのか・・・」とため息をもらすのみ。

アルゲ・バムの復旧の予定があるのかどうか分かりませんが、おそらく、相当に難しいでしょう。個人的には不可能だろうと感じました。まったく残念。歴史とはこういうものなのかなと感じたりもしました。

そんなわけで、バムで1泊するのはあきらめ、その足でパキスタン国境近くの町ザーヘダーンへ向かいました。

ザーヘダーンの町では人々の服装がこれまでのイランの町とは異なり、男性も多くはピジャムというのでしょうか、ダブッとしたパジャマのような民族衣装を纏っています。女性は相変わらず黒いチャドル姿。

それから、待ちゆく車の半分くらい(は大袈裟かもしれないけれど)は、トヨタの古いハイラックスピックアップ。パキスタンからの買い出しの人が多いため、荷物のたくさん積める車が必要だったようです。僕が国境まで乗ったタクシーも、ハイラックスでした。同乗のパキスタン人の荷物で、荷台部分は満載。でも、なんでみんな「トヨタ」なんだろう。なぞです。

2004.08.15 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

イラン観光のハイライトのひとつと言ってもいいでしょう。有名なペルセポリスの遺跡は、シーラーズからタクシーを飛ばして1時間ほどのところにあります。

紀元前522年、時の大王ダリウス1世の命により着工されたというのですから、実に2,500年以上も前の話です。残念ながら紀元前330年、アレキサンドロス大王の前に陥落、その後の大宴会の際に出火して、ほとんどすべてが灰燼に帰してしまったとのこと。あまりにも悲しい話です。

「悲しい」というのは、現在もその姿をとどめている石柱や宮殿跡などが、ほんとうに、とてもすばらしいからです。とくに、謁見の間の天井を支えていたという石柱群がそびえるさまは立派で、一体ここにどんな空間が広がっていたんだろう、なんて、歴史オンチな自分でも思わず空想をめぐらせてしまいます。

(言葉ではなんとも伝えられないので、のちのち写真をアップできたらと思います。)

2004.08.14 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

エスファハンよりさらに南へ500キロ、イランの「芸術と文化の町」、シーラーズにやってきました。

何ゆえ「芸術と文化の町」かというと、かつてイランを代表する2人の詩人、サアディー(1207-1291)とハーフェズ(1324-1389)がこの町で生まれ、活躍したため(とくにハーフェズはイラン最高の叙情詩人として評価されているらしい)。それぞれの棺のある廟は、現在も参拝客でにぎわっているとのこと。
(町の中心から少し離れているため、ぼくは訪れませんでした)

芸術と文化、のためかどうかはわかりませんが、シーラーズの町には映画館がいくつもあって、僕もちょっとのぞいてみました。外国人だったからか、受付のおじさんは「ウェルカーム!」みたいな感じで、チケットなしでも入れてくれました。こういうところ、イランの人はとても鷹揚です。

映画は途中から見たのだけれど、なかなか凄絶な内容。美しい女性がなぜかドラッグ中毒になっていて、その理由を弟(たぶん)とその友人たちに告白する。愛する先生を殺され、自暴自棄になったところを悪い男にだまされて、薬漬けにされ、金持ちの親父に売り飛ばされ、そこを何とか脱出、現在に至る...みたいな内容。そのヤク中女性の演技がすごくて(目がいっちゃってる)ちょっと気持ちが悪いなあ、なんて思いながら見ていたのですが、気がつくと館内のあちらこちらからはすすり泣きの声。台詞がまったくわからなかったのでなんともいえないのですが、なかなかに感動的というか感傷的な告白だったようです。そういえば弟たちも話を聞きながら涙ぐんでたな...。

それで映画のほうは、弟たち4名の若者が復讐に立ち上がって、木製バットを手に、悪い男のアジトのようなところを襲撃して、そこにいたヤク中どもと悪い男とをぼこぼこにする、というオチ。どうも弟たちは警官か軍人のようなんだけど(そろいの制服を着ていた)、細かいところまではわかりません。木製バットで襲撃(しかも材木屋で特注で作ってもらってた)というのは驚きだったけれど、暴力の描写がハリウッドみたいに演出されてなくて、台本なしの一発撮り、みたいな感じで、妙に生々しかった。ちなみにイランでは、薬物取締りには極刑をもって臨んでいるらしいです。

(映画の話を長々とすみません。ぜんぜん町の説明になってませんね...。)

脱線ついでにもうひとつ。
イランにおいて、僕が個人的に、一番困ったことはなんでしょう?

トイレ?
ノー。いわゆる「トルコ式」トイレは、慣れてしまうとかえって清潔で快適。I'm lovin' it!

言葉?
これはこちらの英語力の問題で、特にイランに限ったことではないので、ノー。(ホテルのフロントなどではたいてい英語が通じます)

食事?
これもノー。トルコ料理ほど旨い!ってわけじゃないけれど、レストランではかなりちゃんとしたケバブ(肉の串焼き)など食べられるし、ピザやハンバーガーなどのファーストフードの店もあって、ハンバーガーはマクドナルドなんかよりよっぽどちゃんとしてます。

正解。
道路の横断、です。

イランの道路事情はテヘランのところでも書きましたけど、産油国ってこともあってか交通量が多くて、しかもみな運転が荒い。そこへもってして、信号というものが街中にもほとんどないんですね。だから、道路の向こう側に渡ろうとしたら、車列のなかにざぶんと飛び込むというか、もぐりこむしかないのです。これが僕にはなかなか至難の業...。

地元の人を見ていると、とくにあわてることもなく、車のちょっとした途切れた隙にゆっくりとした歩調ですいすいと入っていって、車のびゅんびゅん走っている道路の真ん中でちょっと立ち止まったりして、また隙を見つけては向こうまで渡りきってしまうのです。終始ゆっくりとした歩調で。

観察の結果われ思うに、ポイントは「道路の真ん中で立ち止まる」ことができるかどうか、のようです。幹線道路は片側2車線とか3車線あるので、とても一気に渡りきってしまうことはできなくて、一列ずつクリアしていくしかないのですね。だけど実際のところ、車がびゅんびゅん通っていく中で無防備にも立ち止まるということは、慣れない者にとっては相当難しい。イラン人の運転を信用できなければ、なかなか立ち止まれません。(そして僕はいまいち彼らの運転を信用しきれていないのです。残念ながら)

たまに信号のある交差点もあるのですが、普段あまり信号で止まるという習慣がないためでしょうか、車も人も、赤信号だろうがなんだろうが、隙があれば我が道をゆく、という態度で一貫しています。交差点に警官が立っていても、さすがに車は止まっていましたが、人のほうは信号無視で行き来していました。

というわけで、僕はいまだに道路を横断するのに苦労していて、ほかのイラン人の後ろにくっついてそそくさと渡っているような有様です。

その土地ごとにいろいろなローカルルールがあるけれど、ある種のものは確かに、新参者にはなかなか馴染めなかったりしますね...。中国のマンホールとか。

2004.08.11 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

エスファハンは、テヘランから南へ300キロほどのところにある、イランでもっとも美しいといわれる町です。最盛期は17世紀ごろで、そのころには「エスファハンは世界の半分」と讃えられたそうです。

市街には緑が多く、歩道も広く歩きやすくて、確かに、喧騒渦巻くテヘランに比べたらオアシスのような町です。

エスファハンの一番の見所は、エマーム広場界隈でしょう。イランの透き通った空に浮かぶモスクの丸いドームは、そのモザイク模様のタイルがきらきらと輝いて、本当に美しい!モスク内の丸天井のモザイクも、実に見事です。

また、町の中央付近には、よく手入れをされた大きな公園があって、金曜日(イランの休日)には、木陰の芝生にカーペットを広げてくつろぐ家族や、サッカーやバトミントンやチェスを楽しむ人々で大変にぎわっています。公園の一角にはちょっとした遊園施設があって、子供たちはそこで大いにはしゃいでいました。ここの観覧車(といっても座席は6脚ほど)は、わかい男が手でぐるぐる回していて、ちょっとびっくり。

町の南には川が流れていて、白鳥型のボートにのったファミリーやカップルの姿も。なんだか、自分がこれまで想像していたイランのイメージとあまりにもかけ離れた光景だったので、思わず笑ってしまった。
(白鳥ボートと、自分自身を)

2004.08.09 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

テヘランには、飛行機で入国しました。そのせいも多少あるかもしれないけれど、テヘランに到着したときは、今回のたびを通じて一番「あぁ、文化の違う国に来たんだな...」と感じました。結構、ガツンとやられた。(アラビア文字の印象が強烈だったのかな)

テヘラン空港に深夜2:30到着だったので、空港は閑散としているのだろうと思っていたら、とんでもない!到着出口付近は、深夜にもかかわらず出迎えのイランの人々でごった返していました。うーん、パワフル。

朝になってからタクシーで待ちに向かったのですが、テヘランの道路はまったくものすごいことになってました! 大げさじゃなく車とバイクの洪水。しかもみんな運転が荒いなんてもんじゃない。車線なんて完全に無視して縦横無尽に駆け回っている感じ。もうぐちゃぐちゃ。なぜ事故にならないのか本当に不思議でたまりません。それから、空気がものすごく悪い。アンカラなんて目じゃない。息が苦しいだけじゃなく、目までチカチカしてくる有様(たぶん光化学スモッグだと思う)。もちろん騒音もすごいし、とにかく、これはすごいところに来ちゃったなぁ、と、思わず笑ってしまうほどでした。

ちなみに、このひどい交通事情を改善すべく、テヘランでは今地下鉄を随意建設中とのこと。路線図を見ると「9号線」まで描かれているけれど、現在運行しているのは。1号線、2号線、それから5号線の一部(3駅分)のみでした。

1979年の「イラン革命」直後に人質事件のあったという、旧アメリカ大使館を見てきました。旧アメリカ大使館はとても広い敷地を持っていて、周囲をぐるりと歩いたら10分ぐらいはかかりそうです。革命以前の両国の関係が、自然とおもんばかられます。正面入口右側には「'DOWN WITH U.S.A」(アメリカを撃ち落せ)の落書き。また別の壁面にも、アメリカを揶揄するようなペインティングがいくつもありました。僕は別に親米派なわけではないけれど、率直に言って、やっぱりこういうのは気持ちよく感じなかった。こういうのはやめたほうがいいよ、と思いました。落書きが書かれたことよりも(それはひと時の感情の高まりの表現だとしても)、その落書きが今に至るまで消されずに放置されていることに、強く憤りを感じました。

滞在したホテルのマネージャー氏(とても親切で知的な雰囲気のある人)と話す機会があったので、難しい質問だとは思いますが、と前置きしたあとで、アメリカのことをどう思うか、尋ねてみました。彼自身は特に反米感情はなく「テクノロジーの優れた国だ」といっていました。「でも、アメリカはイランのことを悪い国だと言っているし、もしかしたら、攻撃してくるかもしれない、僕はそれをとても心配しています」というと、「イランはイラクとは違う、ほかの国を侵略したり、核兵器を作ったりしていない、だからその心配はないだろう」とのことでした。とての冷静な回答だと思いました。ちょっと感情的だった自分が恥ずかしいぐらいに。

一般論としていえるかどうかはわからないけれど、少なくともある種の国においては、政府側の考えと市民側の考えとがかなり乖離してしまっていると思う。そして、国家間の関係においては、市民の考えなんて完全に無視されてしまうし、またわれわれのような他国の市民も、往々にして、その国の政府側の考えなり態度だけを見て、その国を価値判断してしまうようなところがあると思う。なかなかに難しい問題です...

ホテルのマネージャ氏は、いまパソコンに凝っているようで、自分のホテルでインターネットカフェを始めたい、それからホテルのホームページを作って、そこからオンラインで部屋の予約ができるようにしたい、と熱っぽく語っていました。HTMLは「フロントページ」で作ればよいか?データベースはどうすればいい?JavaScriptは?Flushは?ASPは?...と、こちらが回答に困るような実にテクニカルなことまでたずねてきました。確かにうまく答えられなくてちょっと困ったけれど、すごくポジティブなマネージャ氏の様子は、なんだかとてもうれしかったです。彼のホームページが完成したあかつきには、このブログからもぜひリンクしましょう!

2004.08.06 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

カッパドキアは、だいたいトルコの真ん中あたりに位置しています。このあたりは、本当に不思議な形をした岩々が点在していて、何でこんな風になっちゃったの君は?ってたずねたくなるくらい、印象的な光景です。(ぜひ写真をお見せしたい!)

カッパドキア地方は、関東平野ほどの広さがあるそうで、そのため、個人旅行者でも地元のツアーに参加するのが一般的だそうです。そこで、自分もツアーのひとつに参加して、カッパドキアの名所を見て回りました。月並みな表現でほんとに申し訳ないですが、すごく、よかったです。(写真がアップできるようになったら、また感想を書いてみようと思います)

また、トルコの伝統的な踊りも見てきました。トルコの踊りというと、ベリーダンスが有名ですけど、実に複雑なリズム(2+2+2+3の9拍子とか)にあわせて細かくステップを刻む男性の踊りは、一見の価値あり!ベリーダンスも(もちろん)見ましたが、あの腰の動きはすごい!

みなさん、カッパドキアはかなりグッドです!

2004.08.03 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

アンカラは、現在のトルコ共和国の首都、行政的な中心地です。

イスタンブールが、歴史的に常にトルコ地域の中心であったのに対し、
アンカラは、アタチュルク氏によるトルコ近代化政策の結果として作られた都市、
という側面が強くて、あまり観光的に魅力のある町ではありません。
(ビザ取得のために仕方なく立ち寄るという人が多い。自分もそう)

歩いていて思ったのが、町がとにかく埃っぽい!
バスが多いのでその排気ガスのためだと思うのですが、喉の奥ががさがさするような
空気の悪さ。とくに旧市街ウルス界隈はひどい。これにはまったくうんざりでした。

面白かったのは、ウルス地区の外れにあるアンカラ城。
城壁の中には古い街並が残っていて、現在も人びとがそこで生活をしていました。
狭い路地はまったく闇雲に入り組んでいて、歩いていると方向感覚が麻痺してくるよう。

城の横には公園があり、日曜だったこともあってか、
地元の人々がたくさん木陰でチャイを楽しんでいました。
日本人が珍しいのか、チャイを飲んでいけと声をかけてくる人たちがいて、
ありがたく、チャイとトマトとひまわりの種をごちそうになってきました。
こういう親切は本当にうれしかった。

しかしながら、全体的にはアンカラではうんざりすることが多かったです。残念ながら。
(いちいちは書かないけど、ほんとに腹の立つこともあった!)

2018年02月09日
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