「+Diary:s」 blog no.9 - by okumiya.
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「2004年09月」のアーカイブ
2004.09.11 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

海外1人旅経験ゼロにして語学もまったくダメな30歳目前の独身男が、文字通りミギもヒダリもわからぬまま成田を旅立ち、ドイツ・フランクフルト空港に降り立ったのが6月23日のこと。それから約3ヶ月間、個人的な体験としては楽しいことも嫌なことも騙されたことも助けられたことも、ちょっと回想するだけでほんとにまあ、いろいろなことがありました。しかし、何はともあれ、旅のゴール地点であるポカラに無事たどり着くことが出来ました。

なぜ、ネパール・ポカラが最終目的地なのか、ということについては、旅の冒頭(「旅立ち」)でも少し書きました。旅に何か目的があったほうがいいのではないか(そうでないと途中で息切れしてしまうのではないか)、と旅行前に漠然と考えていたこと。偶然にも、知人のネパール人からご両親に宛てた手紙を預かったこと。そしてそれが今回の旅の唯一プラクティカルな「使命」だったこと。そういったわけで、自然とネパール・ポカラがゴール地点となりました。

ネパール人の彼、クリシュナ・パウデルさん(愛称「パウさん」)は、横浜のとある居酒屋で働いています。そこはなかなか面白いお店で、従業員は総勢5〜6人だと思うのですが、その大半は外国からきた方々です。店長のトニーさんはインド人で、日本在住16年。もちろん日本語はぺらぺら(「はいよろこんでー!」といつも威勢がいい)。ウェイトレスは、トニーさんの奥さん(この人もインドの人)。それからミャンマー人のチェリーさん(常連さんの好きな酒を覚えるのが得意。「つぎ、モスコミュールねー」)。厨房の方は、「親方」と呼ばれている50年配のやくざな板前風の男性(昔バンドマンだったらしい)。そして、ちょっとシャイな印象の若者、パウさん。

このお店にはもともとちょくちょく来ていたので、せっかくだからインドのことを教えてもらおうと思い、ある日のこと店長のトニーさんに今回の旅のことを相談しました。彼は喜んでインドのあれこれ(「むちゃくちゃ暑いですよ、40度越えますよ」とか)を教えてくれました。そして、そのあとでこう言いました。「ポカラにも行ったらどうですか。調理場の彼の実家はポカラですばらしいホテルをやってますよ。せっかくだからそこで泊まったらどうですか。いま彼呼んできますから」。

ポカラの地名と、そしてそれがネパールにあるということは、ガイドブックで見てなんとなく知っていました。しかしながら、ネパールは今回の旅ではまったく行くことを想定していませんでした。インドやトルコに比べたらぜんぜん地味だし、見所に乏しいのではないかと(実際のところ、それは否定できないでしょう)。また、インドをスタートしてイスタンブールに抜けるというアジア横断の定番ルートからは、ネパールは少し外れているという事情もありました。ネパールか、どうしようかな・・・、というのが正直なところでした。

パウさんとは、このとき初めて対面しました。ぼくより少し若いかなというくらいの青年で、すし屋の板前風の調理服と白い帽子と前掛け姿。突然の話でちょっと当惑していたのか、「はじめまして」という目線は少々宙を泳いでいましたが、ぼくとトニーさんが事情を説明すると、彼は快く「ぜひきてください。親に連絡しておきます」といってくれて、ポカラへの訪問を歓迎してくれる風でした。・・・この不思議な成り行きに身を任せてみるのも面白いかもしれないな。旅の途中で知人の実家を訪問するというのはなかなか素敵な体験かも。それに異国に知人のツテがあるというのはとても心強いし。そんなことを感じて、ぼくはその場でネパール行きを決心しました。

その後も何度か店に足を運び、トニーさんやパウさんと話をしました。そして2度目か3度目かのときに、パウさんから「手紙を書きますので届けてもらえませんか」と頼まれました。そういわれた瞬間、ぼくの頭の中には、知人の手紙を携えそれを異国へ届けるという旅のイメージがぱっと広がりました。それはずいぶんロマンティックだな・・・。しかも、ぼくの旅が誰かの役に立つことになるのだ・・・。ぼくはもちろん、喜んでポストマンの役割を引き受けました。そして手紙は、出発直前に受け取ることになりました。

約束の日にまた店を訪ねると、パウさんは「せいいちさん、ほんとにすみません。よろしくおねがいします」と頭をさげながら、三井住友銀行の緑色の封筒(ATMの横においてあるやつ)に入れられた20通ほどの手紙の束を、ぼくに手渡しました。手紙の束。それぞれに宛名の書かれた20通の手紙の束。「To Father - From Krishna, Japan」 etc...。

そのときまでぼくは、知人の手紙を届けるということに責任なんてまったく感じていなくて、ただのんきに「ロマンティックだなー」なんて思っていました。しかし、実際にリアルな手紙を20通も受け取って(限られた時間で20通もの手紙を書くなんてただでさえそんなに簡単なことではないはずです)、そしてそこに込められているであろうパウさんの気持ちに思いをはせた時、初めてぼくはこの「ポストマン」の役割に強烈なプレシャーを感じました(恥ずかしいことに)。「絶対に、何があっても、これを無事にポカラへ届けなければならない」という重圧みたいなものがずしりと身にのしかかってきました。手紙の配達を引き受けなければよかった、とは思わなかったけれど、正直なところ、プレッシャーで胃が痛くなる思いでした。

ともあれ、このようにしてぼくは手紙を預かり、それをバックパックの底のほうに大事にしまいこんで、日本を旅立ちました。旅の最中、いろいろ不吉な予感が脳裏をよぎりました。途中の宿に置き忘れたらどうしよう。お金と一緒に盗まれたらどうしよう。バックパックごと盗まれたらどうしよう(アジアのバスやインドの列車ではままあることらしいのです)。途中でリタイアしてポカラまでたどり着けなかったらどうしよう・・・。

しかし、今にして思えば、「これを届けなければ」という気持ちがあったからこそ、3ヶ月間まかりなりにも前に進んでいくことが出来たんじゃないかなと感じます。もしそういった目的なり役割なりが何もなかったら、途中の町でストップして沈没していたかもしれない。別にそれはそれで悪いことではないけれど、少なくともそれは、今回の経験とはまったく違った種類の旅になったんじゃないかなと思います。そしてぼくとしては、今回はどうしても「前に進む旅」をしたかった。だから、パウさんの手紙の存在、そしてポカラへ行くという目的は、旅の過程において常に大きな励みになっていました。

- * - * - * -

さて、ネパール・カトマンズ。ゴール一歩手前。

明日はポカラに出発するという日に、ぼくはパウさんの実家に電話をすることにしました。明日そちらに伺います、という趣旨の確認の電話です。滞在していたホテルのフロントに事情を話し、電話を取り次いでもらって、いよいよ、パウさんのお父さんと話をしました。しかしながら、ここで予想もしなかった事態が・・・。

「私の名前は奥宮誠一です。日本人です。あなたの息子・クリシュナさんの日本での友人です。いまカトマンズにいます。明日そちらに伺いたいです。バスで行きます」
「わかりました。ちょうど、クリシュナはいまポカラにいます。」
「・・・リアリー?!」
「ええ、いまちょっと外出していますけれど。明日はバススタンドまで迎えに行かせます。では、明日お会いしましょう。さようなら」
「・・・さようなら」

クリシュナ(パウさん)がポカラにいる?なんで? ・・・それじゃ、手紙の意味はいったいどうなるんだ?!

最後にして、強烈なオチがついたような感じがして、緊張の糸がふっと緩んだというか、全身の力が抜けたというか、ともかく笑うしかありませんでした。ほんとに・・・。

しかしまあ考えてみれば、配達に3ヶ月もかかるようでは、そもそもポストマン失格かもしれないですね。手紙より先に差出人が向こうに到着していたって、文句の言えないところでしょう。それに、なにしろ明日はパウさんに会えるのです! 異国での知人との再会。これはとても嬉しいことです。

翌朝カトマンズを立ち、午後ポカラ到着。終点のバススタンドでは、「ほんとうに」パウさんが待っていました。日本にいるときの印象とはだいぶ違って、ジーンズにTシャツ姿で、とてもリラックスした雰囲気でした(なにしろ日本では板前姿の彼しか見たことがなかった)。当たり前のことだけれど、他のネパール人と自然に溶け込んでいて、もし向こうが話しかけてくれなければ、こちらからは気がつかなかったかもしれません。

パウさんのお父さんの宿は、決して「すばらしいホテル」なんかではなかったです。古びたゲストハウス。しかしながら、用意されていた部屋はきちんときれいに整えられていて、トイレットペーパーや蚊取り線香まであって、心を尽くしてくれているなあということがとても伝わりました。お父さんは、ネパール人にしては長身で、体格もしっかりとしていて、白髪の短髪で、視線が強く、しかし表情はとても柔和な方でした。誠実な人なんだろうな、という印象。それがきっとパウさんにも受け継がれているのでしょう。

部屋で一息ついた後、ぼくはついに、手紙をお父さんに渡すことが出来ました。

パウさんが帰ってきている今となっては、手紙に書かれたメッセージは当初の意味は厳密には失ってしまっているかもしれない。でも、手紙が書かれた瞬間のパウさんの気持ちは、それがたとえどういう状況でどういうタイミングで相手に渡されることになっても、決してその価値を失ってはいないだろう。そう考えると、この手紙はやはりパウさんに返すのではなく、ポストマンであるぼくからお父さんに手渡すのがきっと正しいのだろうと思えました。そしてぼくの個人的な感情としても、やはり出来ることなら手紙をお父さんに手渡して、旅に一応のけじめをつけたいという思いもありました。手紙の束を手渡した瞬間は、やはり胸が熱くなる思いがしました。

さて、パウさんとの再会を果たし、手紙を届けることも出来て、あとは美しい湖と万年雪をいただいた山々の眺望がすばらしいポカラの町でのんびりするだけ。・・・のはずだったのですが、これにもいささかの問題がありました。都合3泊4日の滞在期間中、ずーっと曇り、もしくは雨、もしくは豪雨。近郊の緑の山々は時折見ることが出来たものの、ポカラの魅力の真骨頂ともいうべきヒマラヤの山々は、ついに望むことが出来ませんでした。現在、ネパールは雨季なんですね。パウさんが3週間前にこちらに戻ってきてからもほとんど毎日雨で、山々が見えたのは2度だけとか。つまりは、図らずも雨季にポカラにきてしまった観光客のほうにいささか問題があるということでしょう。たいへん残念でした。富士五湖にいって富士山を見ないで帰ってくるようなものだから。そんなわけで、こんなぼくがポカラのあれこれを語るのはフェアじゃないような気がするので、この地の見所や魅力についてはこれ以上語ることがありません。

観光が出来ないこともあり、パウさんとは本当にたくさん話をしました。実のところ、日本にいたころは飲み屋の従業員とお客という関係で、ちょっと会話をするくらいで、日本人の感覚で「友達」というには若干気が引けるような、まあ「知り合い」といった関係でした(インドでもトルコでもちょっと会話すれば「マイフレンド」だけれど)。しかし、ポカラではパウさんと本当によい時間をすごしました。一緒に食事をして、酒を飲んで、プライベートなことからネパールの国も問題まで、いろいろなことを話しました。そして、お互いとてもよい友達になることができました。

パウさんは、ワーキング・ビザの問題で再来日はいささか難しい状況のようです(ネパールの国の情勢だったり、日本の受け入れ側の企業の裁量だったりするので、パウさん個人ではどうしようもないらしい)。しかし彼は、お金のことを抜きにしても、今でも日本のことをとても好いてくれてます。安全で、食べ物が美味しいくて(刺身と納豆!)、人がやさしい、もし働くことが出来なくても機会があったら旅行に来たい、と。そんなふうにいってもらえるのは、日本人としてたいへんうれしかったです。そして、しばらく外国を旅行していた者にとっても、日本は安全で、食べ物が美味しくて、人がやさしい、ということは、心の底から共感出来ることでした。本当です。日本は、とってもすばらしい国です。町に兵隊はいないし、どんな食べ物だってあるし、人と人とがきちんと挨拶の出来る国。仕事があってチャンスにあふれている国。政治家が人を殺さない国。

ポカラを去る最後の朝も、外は雨でした。やれやれ。これはまた近々、ポカラに来なくてはいけないな。見ることの出来なかった美しい山々と、心優しい友人に会いに。

2004.09.09 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

インドより空路、ネパールのカトマンズに入りました。晴れていれば、ヒマラヤの山々などを見ることが出来たのかもしれませんが、残念ながら雲が厚く地表を蔽うあいにくの空模様。

カトマンズは、地理的には標高1350メートルほどの盆地にあり、晴れていれば遠くヒマラヤ・エベレストを望むことも出来るそうです(ただ最近は大気汚染のためなかなか難しいらしいけれど)。気候はインドに比べたら気温・湿度ともだいぶ低く、とても過ごしやすいです。朝晩は肌寒いほど。

街並みは、他国の首都級の都市に比べると格段にこじんまりとしています。空港から市街への道のりからは、「枯れた」感じのレンガ造りの家々が連なっている様が見えました。不思議に懐かしくほっとさせる風景でした。とはいえ、近年のカトマンズは、市街中心地の西洋化・近代化・観光化が進み、大気汚染が深刻な問題となり、外資系の店舗(飲食・トレッキング関係など)があたらに進出してきたりしているようです。古きよき時代のこの地を知る旅行者はそれらのことを嘆いているみたいですが、この地を初めて訪れたぼくには残念ながらその功罪はよくわかりません。

ネパールの国教はヒンズー教ですが、カトマンズ市街近郊にはチベット仏教の寺院もいくつかあります。そのうちのひとつ、スワヤンブナートにいってきました。寺院は小高い山の頂上にあり、そこにいたる石段を登るのは結構ハード。石像やら露天やらサルやらを横目にその階段を登りきると、有名な仏陀の眼の書かれた仏塔があり、その視線は山頂からカトマンズの街を見下ろしています。仏塔は、美しいとか壮大だとかいう表現は似つかわしくありませんが、ネイティブな力があるというか、確かな存在感がありました。ぼくはこの仏塔、すごく好きになりました。

あと、カトマンズが良いのは人々が柔和なことです。特にインドから来たものにとっては、「ナマステー」の挨拶とあの笑顔は何にも変えがたい安らぎです。距離的にはほんのちょっとの違いなのに、この違いはなんなんだろう?(もちろん、観光地なので多少アグレッシブな人はいます。でもインドに比べたら、アリとキリギリスぐらい(?)の違いがあります)


・・・いよいよ、この旅にも終わりが近づいてきました。次は最終目的地、ポカラ!

2004.09.08 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

仏教生誕の地、ボードガヤーに来ました。日本では「ブッダガヤ」として知られていますが、この地でゴーダマ・シッダールタがついに覚りを得た(ブッダとなった)という逸話は、日本人にはおなじみのところでしょう。

シッダールタが6年間苦行を積んだ(しかし覚りは得られなかった)といわれる山、シッダールタにミルク粥を与えたといわれるスジャータ(これも有名な逸話ですね)の住んでいた村、その後木陰で瞑想に入ったシッダールタがついに覚りを得たというその菩提樹(現在は4代目だそうです)、菩提樹を囲むように建てられたマハーボディ寺院、などなど、仏教ゆかりの土地ならではの史跡・名所があり、まかりなりにも仏教徒であるぼくには、たいへん興味深かったです。ヒンズー世界にちょっとあてられた後だけに、心がほっと休まる思いがしました。

また、周辺には世界各国の仏教寺院が転々としていて、これを訪ね歩くのもなかなか面白いです。一口に仏教といっても、寺院の様式(とくに色彩)や礼拝の方法など、各国によってかなり違うのだなということがわかります。日本寺院は、我々のよく知っているとおり、枯れた雰囲気というか落ち着いた趣ですが、たとえばチベット仏教は、赤や黄色でもっと派手(ヒンズーの影響があるような気がしますね)で、人々は五体投地でお祈りするし、仏像の前にはダライ・ラマの写真が飾られていたりします。

ガイドブックによると、この地にも観光を生業とする人々の中には悪質な人がいたりするそうですが(また実際アグレッシブな人も多いけれど)、すくなくとも、インド的な喧騒とは離れた静かな世界を体感することが出来ます。日本に帰ったら、いちど座禅でもしてみようかな、という気になりました。

2004.09.06 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ヒンズー教の聖地、バナーラス。

この地の存在は、我々ヒンズー世界の外に住む者たちにとってすらあまりにも有名だし、ここで営まれているヒンズーの人々の行い、たとえばガンガーでの沐浴や死者の火葬についても、多くは知識あるいは情報としてすでに我々の知るところである。

しかし、これほど「知る」ことと「感じる」ことの乖離した世界が、他にあるのだろうか・・・。


バナーラスは表向き、普通のインドの大きな町、といった印象だ。道が混んでいて、牛がいて、多くの人々はアグレッシブで、よく停電する。これがあの「聖地」なのか、といささか拍子抜けしてしまう。

しかし、バナーラスを体験した多くの人々が語ることだが、ヒンズーの真髄としてのこの地はやはり、ガンガーと切り離すことができないのだと思う。ガンガー沿いに広がる路地裏のヒンズー的な世界は、まったく、ひとつの独立した世界だった。正直にいって、ぼくにはそれしかわからなかった。違う。ぼくの住む世界とは決定的に違う。

これまで何度か「ここは違う世界だ」と感じたことはあった。けれど、知識とか理性とか想像力とかを働かせて、それでもだめなときは単にそれを受け入れて、そうすることで多少なりとも「わかった」という手ごたえを感じることが出来た。その「わかった」中身が、実はその世界の本質を捉えていないとしても(多くの場合がそうであろう)、しかし少なくとも、ぼくにとってその世界はそのように感じられたのだし、理解されたのだ。そういった「手ごたえ」のようなものがあった。たとえその「手ごたえ」をあとでうまく言葉で表現できなかったとしても。

朝日の昇るガンガーを見た。その岸辺での火葬も見た。火葬場の脇で焼かれることもなくガンガーに浮かぶ貧しい人の死体も見た。ぼくの乗った舟の船頭はあたかもそれがサービスだとでもいわんばかりにその死体のすぐ脇を通っていった。横のガートで体を洗い口を漱ぐ人々を見た。沐浴する人々を見た。人々に混ざりぼくも沐浴をした。しかしここでは、見ても、試しても、人と接しても、それらを通じてこの世界が「わかった」と感じたことは、ついぞなかったのだ。ヒンズー世界は聖なるものと俗なるものとが渾然一体となっている、生も死もつながっている、などというけれど、そういう知識はここでは、この現実の前では、まったく無力だ。ガンガーの路地裏を歩いている時、だからぼくは怖くてしかたがなかった。どこにも寄る辺のない、迷子のような心境だった。

おそらく、この世界を「わかる」ためには、いま持っているすべてのものを捨てここに飛び込むしかないのだろうと思う。あるいは、輪廻の果てにこの地に生を授かるか・・・。しかし、ぼくはこれまでのぼくの世界を捨てることは出来ないし、そんな覚悟はない。だからぼくが言い得るのは、ただ、この地にはぼくには理解することの出来ない価値観を持った世界が確かに存在した、というだけである。ただひとこと、「わからなかった」と。

2004.09.04 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ムガール帝国の古都アーグラーは、デリーから特急列車で4時間ほど。デリーとアーグラーと、アーグラーの西に位置するジャイプルとは、地理的にちょうど三角形の関係にあるため「ゴールデン・トライアングル」とも呼ばれ(うろ覚えですが)、インド有数の観光スポットとなっています。

アーグラーの見所といえば、とにもかくにも(あるいは良くも悪くも)、タージ・マハルにつきるでしょう。これはもう、文句なく美しい。完璧に均整の取れた全体のフォルムといい、日の光の反射する白い大理石の質感といい、大理石表面の上品な文様といい。庭園全体の整った雰囲気も、タージマハルの完璧な美しさを一層引き立たせています。

インドで最も美しいといわれるこの白亜の廟は、ムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハンが、最愛の妃ムムターズ・マハルのために作らせたもので、ムムターズの死後22年の歳月と莫大な費用をかけて、1653年に完成されたといわれています(いうなれば、シャー・ジャハンのムムターズに対する愛の証なわけですね)。

というわけで、タージ・マハルそれ自体たいへんロマンティックな由来を持つわけですが、そのほかにもシャー・ジャハンをめぐっては数々の興味深い逸話があり(妃の死で一夜にして白髪と化したとか、「黒いタージ」の計画とか、晩年の幽閉生活とか)、そういったもろもろのロマンティシズムの象徴としても、タージ・マハルは多くの人々の心を捉えているのではないかな、と思います。

旅行者にとっての一般論として、アーグラーについてはタージ・マハルについて言及すればほぼ事足りてしまうとは思うのですが、しかし個人的にはもう一点、書き加えておきたいです。というのは、アーグラーにおけるリキシャワーラ・宿屋・土産物屋・ガイドなどの客引きのくどさ・しつこさは、特筆に価すると思うからです。

インド人のアグレッシブさは、デリーで体験したとおりなのですが、それにしてもアーグラーはひどい、と感じました。インド有数の観光地だから仕方ないのかもしれないけれど、この地の観光業に携わる人々はあまりに観光客ずれしすぎていると思います。無視してもついてくる。断ってもついてくる。散々断ったリキシャさんが、翌日ホテルの門の前に陣取っていた時には、ほんとにうんざりしました。まともに相手をしなければ「実害」はないけれど、しかし、「うんざり」するのです。

アーグラーは、良くも悪くも(あるいはとにもかくにも)、タージ・マハルに尽きるのでしょう。それを求めて集まる人々と、その人々を生活の糧にする人々。

2004.09.01 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

デリーにやって来ました。

多くの旅人にとって今も昔もデリーは「インドの入り口」。この地からインドの混沌へと身を投じた旅人達は、あるいはこの地の人々の活力に圧倒され、あるいは熱気に疲労困憊し、あるいは嫌悪し、あるいは怖れおびえ、あるいはその文化的な豊穣さにとりつかれてしまう。しかしながら、善しにつけ悪しきにつけ、誰一人としてこの地に無関心・無感動ではいられない。インドとは、ひとことでいうとそういう国のようです。

デリーの町は大きく、ムガール帝国時代(あるいはそれ以前)の帝都として栄えたオールドデリー地区と、イギリス統治(植民地)時代に新しく建設されたニューデリー地区とに分けられます。

現在のインドの首都としての機能は、ニューデリー界隈やそれ以南の地区に広がっています。とても近代的な雰囲気で、街路樹の緑が心地よく、「インド的」な喧騒とはほぼ無縁。しかし、これが大国インドのひとつの側面であることは間違いないでしょう。(聞いたところによると、インド一の大都市ムンバイ(ボンベイ)は、ニューデリーに輪をかけて近代的だそうです)

一方、オールドデリー界隈、とくに街道沿いから一歩入った旧市街の雰囲気は、なるほど実に「インド的」です。まず人の多さにちょっと圧倒されます。ひところの原宿・竹下通りのような(たとえが古いなあ)。インドの生活者たちがどっと集まっていて、そこをまた強引にリキシャが通り、自転車が通り、牛が通ります。店は実にさまざまで、色鮮やかな香辛料の粉末を店先に並べたスパイス屋から、バイクの油圧部分だけ売っているパーツ屋まで、たぶんインドでの生活に必要なものは何でも手に入るのでしょう。各定食屋の前には、これは席が空くのをを待っているのか、それとも施しを待っているのか、粗末な衣服の人々が20人くらい、地べたに座り込んでいます。そんな古い商店の連なるちょっと薄暗い街路が、歩けど歩けど、いったい終わりがあるのだろうかと不安になるくらいに続いていました。しかし、やっと迷宮の出口らしきところまでたどり着き、表に出ると、そこは明るく太い街道沿いで、きれいに舗装された路面に自動車が行き交い、その脇には映画館や銀行が立ち並んでいるのでした。いったいこの対比はなんなのだろう? 単に「新旧」とも「貧富」ともいえないような、不思議な感覚を覚えました。

デリーの町の印象は、非常に大雑把ながら上記のような感じです。しかしながら個人的に(しかし多くの旅人が共感してくれるでしょう)一番「インドだなぁ」と思ったのは、この地の人々の活気、エネルギー(良くいえば)。悪くいえば、ずるさ、しつこさ。英語ではこれを「アグレッシブ」(侵略的な・攻撃的な)と表現するみたいです。

ぼくは幸いにも、デリーでは悪質な客引き・旅行会社などに悩まされることはなかったのですが、多くの旅人がまずこの類の洗礼を浴びてしまうらしい(要するに詐欺でお金を騙し取られてしまう)。インド人は手ごわい。百戦錬磨だから、こちらが多少用心していても、運が悪ければこの手の災難は免れないんじゃないかな、と思います。インドの人々は、もちろん悪い人ばかりじゃないけれど、たくましいというか、エネルギッシュというか、「アグレッシブ」なのは間違いないです。それがどの方向に向いているかはともかく。

たとえば、新市街の公園で休憩していたら、靴磨きの男が寄ってきてひとこと、「靴磨かない?」。ぼくはビーチサンダル姿なのですが、まあそれがとりあえず、彼にとっての観光客に対する挨拶みたいなものなんでしょう(他のサンダル姿の外人にも声をかけていたから)。それを皮切りに、いろいろ話しかけてきて、行き着くところ「むこうの店は高い。ノット・インディアン・プライス。みなビジネスだから手数料を取っている。でも、ぼくの知ってる店は、インディアン・プライス。これから見に行こう」。単純で典型的な客引きですけど、でもぼくは、この男の「ビジネスだから」という言葉にはちょっと納得しました。悪質な詐欺や脅迫や窃盗はともかく、物を外国人に高く売ることそれ自体は、そんなに悪いといえないのかもしれないなぁ、なんて思いました。ビジネスとして考えたら、誰だって同じものを高く売りたいよな(日本人だって)、なんて思ったわけです。しかも日本と違い殆どのものには「定価」なんてないわけだから(「相場」というのはあるだろうけど)。だから、もしこの男が「ぼくもビジネスだから手数料を取るけれど、他の店よりは安くするよ」といったら、もっと納得しただろうと思います。

この男に「靴磨きの仕事はどう?」と訊いたら、「ちっともよくない」といってました。そうかもしれないな。みんなサンダルだから。ともあれ、これがたとえばインド人の「アグレッシブ」さの一例。

それからもうひとつ。日中の暑い中、コカ・コーラを飲みながら町をぶらぶら歩いていたら、向こうからゴミを一杯に詰め込んだポリ袋を持った少年達が3人、歩いてくるのが見えました。ぼくはパキスタン以来、ゴミ問題にはちょっと敏感になっていたので、いや感心感心、なんて思って少年達をながめていました。すれ違いざま一人の少年と目が合ったので、ぼくはちょっと微笑みました(「えらいね」というふうに)。するとその少年は、何かひとこと「ごにょごにょ」と言葉を発すると、ぼくが左手に持っていた飲みかけのコカ・コーラのペットボトルをグイとつかみ、さっと奪い取っていきました。一瞬の出来事だったし、またその見事な手際のよさに、ぼくはあっけに取られてしまいました。後ろを振り返って飲みかけのコカ・コーラの行方を確認するのを忘れるくらいに。

もちろん、ぼくのコカ・コーラが単純に「ゴミ」だと判断された可能性もあるけれど、中身は半分くらいは残っていたし、コカ・コーラ目的の「窃盗」の可能性のほうが高いんじゃないかな、と思います。暑かったし、ゴミを拾って歩くのはけっこうな労働だろうし、あるいは、すれ違いざまに発した言葉は「それゴミだよね?もらっていいよね?」だったのかもしれない。今となっては真相はよくわかりません。しかし、自らの体験として、これだけは自信を持って言えます。インド人は子供からしてとっても「アグレッシブ」。

2018年02月09日
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