「+Diary:s」 blog no.9 - by okumiya.
Contents
RSS(XML)
「2004年 中欧〜アジア」のアーカイブ
2004.09.11 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

海外1人旅経験ゼロにして語学もまったくダメな30歳目前の独身男が、文字通りミギもヒダリもわからぬまま成田を旅立ち、ドイツ・フランクフルト空港に降り立ったのが6月23日のこと。それから約3ヶ月間、個人的な体験としては楽しいことも嫌なことも騙されたことも助けられたことも、ちょっと回想するだけでほんとにまあ、いろいろなことがありました。しかし、何はともあれ、旅のゴール地点であるポカラに無事たどり着くことが出来ました。

なぜ、ネパール・ポカラが最終目的地なのか、ということについては、旅の冒頭(「旅立ち」)でも少し書きました。旅に何か目的があったほうがいいのではないか(そうでないと途中で息切れしてしまうのではないか)、と旅行前に漠然と考えていたこと。偶然にも、知人のネパール人からご両親に宛てた手紙を預かったこと。そしてそれが今回の旅の唯一プラクティカルな「使命」だったこと。そういったわけで、自然とネパール・ポカラがゴール地点となりました。

ネパール人の彼、クリシュナ・パウデルさん(愛称「パウさん」)は、横浜のとある居酒屋で働いています。そこはなかなか面白いお店で、従業員は総勢5〜6人だと思うのですが、その大半は外国からきた方々です。店長のトニーさんはインド人で、日本在住16年。もちろん日本語はぺらぺら(「はいよろこんでー!」といつも威勢がいい)。ウェイトレスは、トニーさんの奥さん(この人もインドの人)。それからミャンマー人のチェリーさん(常連さんの好きな酒を覚えるのが得意。「つぎ、モスコミュールねー」)。厨房の方は、「親方」と呼ばれている50年配のやくざな板前風の男性(昔バンドマンだったらしい)。そして、ちょっとシャイな印象の若者、パウさん。

このお店にはもともとちょくちょく来ていたので、せっかくだからインドのことを教えてもらおうと思い、ある日のこと店長のトニーさんに今回の旅のことを相談しました。彼は喜んでインドのあれこれ(「むちゃくちゃ暑いですよ、40度越えますよ」とか)を教えてくれました。そして、そのあとでこう言いました。「ポカラにも行ったらどうですか。調理場の彼の実家はポカラですばらしいホテルをやってますよ。せっかくだからそこで泊まったらどうですか。いま彼呼んできますから」。

ポカラの地名と、そしてそれがネパールにあるということは、ガイドブックで見てなんとなく知っていました。しかしながら、ネパールは今回の旅ではまったく行くことを想定していませんでした。インドやトルコに比べたらぜんぜん地味だし、見所に乏しいのではないかと(実際のところ、それは否定できないでしょう)。また、インドをスタートしてイスタンブールに抜けるというアジア横断の定番ルートからは、ネパールは少し外れているという事情もありました。ネパールか、どうしようかな・・・、というのが正直なところでした。

パウさんとは、このとき初めて対面しました。ぼくより少し若いかなというくらいの青年で、すし屋の板前風の調理服と白い帽子と前掛け姿。突然の話でちょっと当惑していたのか、「はじめまして」という目線は少々宙を泳いでいましたが、ぼくとトニーさんが事情を説明すると、彼は快く「ぜひきてください。親に連絡しておきます」といってくれて、ポカラへの訪問を歓迎してくれる風でした。・・・この不思議な成り行きに身を任せてみるのも面白いかもしれないな。旅の途中で知人の実家を訪問するというのはなかなか素敵な体験かも。それに異国に知人のツテがあるというのはとても心強いし。そんなことを感じて、ぼくはその場でネパール行きを決心しました。

その後も何度か店に足を運び、トニーさんやパウさんと話をしました。そして2度目か3度目かのときに、パウさんから「手紙を書きますので届けてもらえませんか」と頼まれました。そういわれた瞬間、ぼくの頭の中には、知人の手紙を携えそれを異国へ届けるという旅のイメージがぱっと広がりました。それはずいぶんロマンティックだな・・・。しかも、ぼくの旅が誰かの役に立つことになるのだ・・・。ぼくはもちろん、喜んでポストマンの役割を引き受けました。そして手紙は、出発直前に受け取ることになりました。

約束の日にまた店を訪ねると、パウさんは「せいいちさん、ほんとにすみません。よろしくおねがいします」と頭をさげながら、三井住友銀行の緑色の封筒(ATMの横においてあるやつ)に入れられた20通ほどの手紙の束を、ぼくに手渡しました。手紙の束。それぞれに宛名の書かれた20通の手紙の束。「To Father - From Krishna, Japan」 etc...。

そのときまでぼくは、知人の手紙を届けるということに責任なんてまったく感じていなくて、ただのんきに「ロマンティックだなー」なんて思っていました。しかし、実際にリアルな手紙を20通も受け取って(限られた時間で20通もの手紙を書くなんてただでさえそんなに簡単なことではないはずです)、そしてそこに込められているであろうパウさんの気持ちに思いをはせた時、初めてぼくはこの「ポストマン」の役割に強烈なプレシャーを感じました(恥ずかしいことに)。「絶対に、何があっても、これを無事にポカラへ届けなければならない」という重圧みたいなものがずしりと身にのしかかってきました。手紙の配達を引き受けなければよかった、とは思わなかったけれど、正直なところ、プレッシャーで胃が痛くなる思いでした。

ともあれ、このようにしてぼくは手紙を預かり、それをバックパックの底のほうに大事にしまいこんで、日本を旅立ちました。旅の最中、いろいろ不吉な予感が脳裏をよぎりました。途中の宿に置き忘れたらどうしよう。お金と一緒に盗まれたらどうしよう。バックパックごと盗まれたらどうしよう(アジアのバスやインドの列車ではままあることらしいのです)。途中でリタイアしてポカラまでたどり着けなかったらどうしよう・・・。

しかし、今にして思えば、「これを届けなければ」という気持ちがあったからこそ、3ヶ月間まかりなりにも前に進んでいくことが出来たんじゃないかなと感じます。もしそういった目的なり役割なりが何もなかったら、途中の町でストップして沈没していたかもしれない。別にそれはそれで悪いことではないけれど、少なくともそれは、今回の経験とはまったく違った種類の旅になったんじゃないかなと思います。そしてぼくとしては、今回はどうしても「前に進む旅」をしたかった。だから、パウさんの手紙の存在、そしてポカラへ行くという目的は、旅の過程において常に大きな励みになっていました。

- * - * - * -

さて、ネパール・カトマンズ。ゴール一歩手前。

明日はポカラに出発するという日に、ぼくはパウさんの実家に電話をすることにしました。明日そちらに伺います、という趣旨の確認の電話です。滞在していたホテルのフロントに事情を話し、電話を取り次いでもらって、いよいよ、パウさんのお父さんと話をしました。しかしながら、ここで予想もしなかった事態が・・・。

「私の名前は奥宮誠一です。日本人です。あなたの息子・クリシュナさんの日本での友人です。いまカトマンズにいます。明日そちらに伺いたいです。バスで行きます」
「わかりました。ちょうど、クリシュナはいまポカラにいます。」
「・・・リアリー?!」
「ええ、いまちょっと外出していますけれど。明日はバススタンドまで迎えに行かせます。では、明日お会いしましょう。さようなら」
「・・・さようなら」

クリシュナ(パウさん)がポカラにいる?なんで? ・・・それじゃ、手紙の意味はいったいどうなるんだ?!

最後にして、強烈なオチがついたような感じがして、緊張の糸がふっと緩んだというか、全身の力が抜けたというか、ともかく笑うしかありませんでした。ほんとに・・・。

しかしまあ考えてみれば、配達に3ヶ月もかかるようでは、そもそもポストマン失格かもしれないですね。手紙より先に差出人が向こうに到着していたって、文句の言えないところでしょう。それに、なにしろ明日はパウさんに会えるのです! 異国での知人との再会。これはとても嬉しいことです。

翌朝カトマンズを立ち、午後ポカラ到着。終点のバススタンドでは、「ほんとうに」パウさんが待っていました。日本にいるときの印象とはだいぶ違って、ジーンズにTシャツ姿で、とてもリラックスした雰囲気でした(なにしろ日本では板前姿の彼しか見たことがなかった)。当たり前のことだけれど、他のネパール人と自然に溶け込んでいて、もし向こうが話しかけてくれなければ、こちらからは気がつかなかったかもしれません。

パウさんのお父さんの宿は、決して「すばらしいホテル」なんかではなかったです。古びたゲストハウス。しかしながら、用意されていた部屋はきちんときれいに整えられていて、トイレットペーパーや蚊取り線香まであって、心を尽くしてくれているなあということがとても伝わりました。お父さんは、ネパール人にしては長身で、体格もしっかりとしていて、白髪の短髪で、視線が強く、しかし表情はとても柔和な方でした。誠実な人なんだろうな、という印象。それがきっとパウさんにも受け継がれているのでしょう。

部屋で一息ついた後、ぼくはついに、手紙をお父さんに渡すことが出来ました。

パウさんが帰ってきている今となっては、手紙に書かれたメッセージは当初の意味は厳密には失ってしまっているかもしれない。でも、手紙が書かれた瞬間のパウさんの気持ちは、それがたとえどういう状況でどういうタイミングで相手に渡されることになっても、決してその価値を失ってはいないだろう。そう考えると、この手紙はやはりパウさんに返すのではなく、ポストマンであるぼくからお父さんに手渡すのがきっと正しいのだろうと思えました。そしてぼくの個人的な感情としても、やはり出来ることなら手紙をお父さんに手渡して、旅に一応のけじめをつけたいという思いもありました。手紙の束を手渡した瞬間は、やはり胸が熱くなる思いがしました。

さて、パウさんとの再会を果たし、手紙を届けることも出来て、あとは美しい湖と万年雪をいただいた山々の眺望がすばらしいポカラの町でのんびりするだけ。・・・のはずだったのですが、これにもいささかの問題がありました。都合3泊4日の滞在期間中、ずーっと曇り、もしくは雨、もしくは豪雨。近郊の緑の山々は時折見ることが出来たものの、ポカラの魅力の真骨頂ともいうべきヒマラヤの山々は、ついに望むことが出来ませんでした。現在、ネパールは雨季なんですね。パウさんが3週間前にこちらに戻ってきてからもほとんど毎日雨で、山々が見えたのは2度だけとか。つまりは、図らずも雨季にポカラにきてしまった観光客のほうにいささか問題があるということでしょう。たいへん残念でした。富士五湖にいって富士山を見ないで帰ってくるようなものだから。そんなわけで、こんなぼくがポカラのあれこれを語るのはフェアじゃないような気がするので、この地の見所や魅力についてはこれ以上語ることがありません。

観光が出来ないこともあり、パウさんとは本当にたくさん話をしました。実のところ、日本にいたころは飲み屋の従業員とお客という関係で、ちょっと会話をするくらいで、日本人の感覚で「友達」というには若干気が引けるような、まあ「知り合い」といった関係でした(インドでもトルコでもちょっと会話すれば「マイフレンド」だけれど)。しかし、ポカラではパウさんと本当によい時間をすごしました。一緒に食事をして、酒を飲んで、プライベートなことからネパールの国も問題まで、いろいろなことを話しました。そして、お互いとてもよい友達になることができました。

パウさんは、ワーキング・ビザの問題で再来日はいささか難しい状況のようです(ネパールの国の情勢だったり、日本の受け入れ側の企業の裁量だったりするので、パウさん個人ではどうしようもないらしい)。しかし彼は、お金のことを抜きにしても、今でも日本のことをとても好いてくれてます。安全で、食べ物が美味しいくて(刺身と納豆!)、人がやさしい、もし働くことが出来なくても機会があったら旅行に来たい、と。そんなふうにいってもらえるのは、日本人としてたいへんうれしかったです。そして、しばらく外国を旅行していた者にとっても、日本は安全で、食べ物が美味しくて、人がやさしい、ということは、心の底から共感出来ることでした。本当です。日本は、とってもすばらしい国です。町に兵隊はいないし、どんな食べ物だってあるし、人と人とがきちんと挨拶の出来る国。仕事があってチャンスにあふれている国。政治家が人を殺さない国。

ポカラを去る最後の朝も、外は雨でした。やれやれ。これはまた近々、ポカラに来なくてはいけないな。見ることの出来なかった美しい山々と、心優しい友人に会いに。

2004.09.09 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

インドより空路、ネパールのカトマンズに入りました。晴れていれば、ヒマラヤの山々などを見ることが出来たのかもしれませんが、残念ながら雲が厚く地表を蔽うあいにくの空模様。

カトマンズは、地理的には標高1350メートルほどの盆地にあり、晴れていれば遠くヒマラヤ・エベレストを望むことも出来るそうです(ただ最近は大気汚染のためなかなか難しいらしいけれど)。気候はインドに比べたら気温・湿度ともだいぶ低く、とても過ごしやすいです。朝晩は肌寒いほど。

街並みは、他国の首都級の都市に比べると格段にこじんまりとしています。空港から市街への道のりからは、「枯れた」感じのレンガ造りの家々が連なっている様が見えました。不思議に懐かしくほっとさせる風景でした。とはいえ、近年のカトマンズは、市街中心地の西洋化・近代化・観光化が進み、大気汚染が深刻な問題となり、外資系の店舗(飲食・トレッキング関係など)があたらに進出してきたりしているようです。古きよき時代のこの地を知る旅行者はそれらのことを嘆いているみたいですが、この地を初めて訪れたぼくには残念ながらその功罪はよくわかりません。

ネパールの国教はヒンズー教ですが、カトマンズ市街近郊にはチベット仏教の寺院もいくつかあります。そのうちのひとつ、スワヤンブナートにいってきました。寺院は小高い山の頂上にあり、そこにいたる石段を登るのは結構ハード。石像やら露天やらサルやらを横目にその階段を登りきると、有名な仏陀の眼の書かれた仏塔があり、その視線は山頂からカトマンズの街を見下ろしています。仏塔は、美しいとか壮大だとかいう表現は似つかわしくありませんが、ネイティブな力があるというか、確かな存在感がありました。ぼくはこの仏塔、すごく好きになりました。

あと、カトマンズが良いのは人々が柔和なことです。特にインドから来たものにとっては、「ナマステー」の挨拶とあの笑顔は何にも変えがたい安らぎです。距離的にはほんのちょっとの違いなのに、この違いはなんなんだろう?(もちろん、観光地なので多少アグレッシブな人はいます。でもインドに比べたら、アリとキリギリスぐらい(?)の違いがあります)


・・・いよいよ、この旅にも終わりが近づいてきました。次は最終目的地、ポカラ!

2004.09.08 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

仏教生誕の地、ボードガヤーに来ました。日本では「ブッダガヤ」として知られていますが、この地でゴーダマ・シッダールタがついに覚りを得た(ブッダとなった)という逸話は、日本人にはおなじみのところでしょう。

シッダールタが6年間苦行を積んだ(しかし覚りは得られなかった)といわれる山、シッダールタにミルク粥を与えたといわれるスジャータ(これも有名な逸話ですね)の住んでいた村、その後木陰で瞑想に入ったシッダールタがついに覚りを得たというその菩提樹(現在は4代目だそうです)、菩提樹を囲むように建てられたマハーボディ寺院、などなど、仏教ゆかりの土地ならではの史跡・名所があり、まかりなりにも仏教徒であるぼくには、たいへん興味深かったです。ヒンズー世界にちょっとあてられた後だけに、心がほっと休まる思いがしました。

また、周辺には世界各国の仏教寺院が転々としていて、これを訪ね歩くのもなかなか面白いです。一口に仏教といっても、寺院の様式(とくに色彩)や礼拝の方法など、各国によってかなり違うのだなということがわかります。日本寺院は、我々のよく知っているとおり、枯れた雰囲気というか落ち着いた趣ですが、たとえばチベット仏教は、赤や黄色でもっと派手(ヒンズーの影響があるような気がしますね)で、人々は五体投地でお祈りするし、仏像の前にはダライ・ラマの写真が飾られていたりします。

ガイドブックによると、この地にも観光を生業とする人々の中には悪質な人がいたりするそうですが(また実際アグレッシブな人も多いけれど)、すくなくとも、インド的な喧騒とは離れた静かな世界を体感することが出来ます。日本に帰ったら、いちど座禅でもしてみようかな、という気になりました。

2004.09.06 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ヒンズー教の聖地、バナーラス。

この地の存在は、我々ヒンズー世界の外に住む者たちにとってすらあまりにも有名だし、ここで営まれているヒンズーの人々の行い、たとえばガンガーでの沐浴や死者の火葬についても、多くは知識あるいは情報としてすでに我々の知るところである。

しかし、これほど「知る」ことと「感じる」ことの乖離した世界が、他にあるのだろうか・・・。


バナーラスは表向き、普通のインドの大きな町、といった印象だ。道が混んでいて、牛がいて、多くの人々はアグレッシブで、よく停電する。これがあの「聖地」なのか、といささか拍子抜けしてしまう。

しかし、バナーラスを体験した多くの人々が語ることだが、ヒンズーの真髄としてのこの地はやはり、ガンガーと切り離すことができないのだと思う。ガンガー沿いに広がる路地裏のヒンズー的な世界は、まったく、ひとつの独立した世界だった。正直にいって、ぼくにはそれしかわからなかった。違う。ぼくの住む世界とは決定的に違う。

これまで何度か「ここは違う世界だ」と感じたことはあった。けれど、知識とか理性とか想像力とかを働かせて、それでもだめなときは単にそれを受け入れて、そうすることで多少なりとも「わかった」という手ごたえを感じることが出来た。その「わかった」中身が、実はその世界の本質を捉えていないとしても(多くの場合がそうであろう)、しかし少なくとも、ぼくにとってその世界はそのように感じられたのだし、理解されたのだ。そういった「手ごたえ」のようなものがあった。たとえその「手ごたえ」をあとでうまく言葉で表現できなかったとしても。

朝日の昇るガンガーを見た。その岸辺での火葬も見た。火葬場の脇で焼かれることもなくガンガーに浮かぶ貧しい人の死体も見た。ぼくの乗った舟の船頭はあたかもそれがサービスだとでもいわんばかりにその死体のすぐ脇を通っていった。横のガートで体を洗い口を漱ぐ人々を見た。沐浴する人々を見た。人々に混ざりぼくも沐浴をした。しかしここでは、見ても、試しても、人と接しても、それらを通じてこの世界が「わかった」と感じたことは、ついぞなかったのだ。ヒンズー世界は聖なるものと俗なるものとが渾然一体となっている、生も死もつながっている、などというけれど、そういう知識はここでは、この現実の前では、まったく無力だ。ガンガーの路地裏を歩いている時、だからぼくは怖くてしかたがなかった。どこにも寄る辺のない、迷子のような心境だった。

おそらく、この世界を「わかる」ためには、いま持っているすべてのものを捨てここに飛び込むしかないのだろうと思う。あるいは、輪廻の果てにこの地に生を授かるか・・・。しかし、ぼくはこれまでのぼくの世界を捨てることは出来ないし、そんな覚悟はない。だからぼくが言い得るのは、ただ、この地にはぼくには理解することの出来ない価値観を持った世界が確かに存在した、というだけである。ただひとこと、「わからなかった」と。

2004.09.04 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ムガール帝国の古都アーグラーは、デリーから特急列車で4時間ほど。デリーとアーグラーと、アーグラーの西に位置するジャイプルとは、地理的にちょうど三角形の関係にあるため「ゴールデン・トライアングル」とも呼ばれ(うろ覚えですが)、インド有数の観光スポットとなっています。

アーグラーの見所といえば、とにもかくにも(あるいは良くも悪くも)、タージ・マハルにつきるでしょう。これはもう、文句なく美しい。完璧に均整の取れた全体のフォルムといい、日の光の反射する白い大理石の質感といい、大理石表面の上品な文様といい。庭園全体の整った雰囲気も、タージマハルの完璧な美しさを一層引き立たせています。

インドで最も美しいといわれるこの白亜の廟は、ムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハンが、最愛の妃ムムターズ・マハルのために作らせたもので、ムムターズの死後22年の歳月と莫大な費用をかけて、1653年に完成されたといわれています(いうなれば、シャー・ジャハンのムムターズに対する愛の証なわけですね)。

というわけで、タージ・マハルそれ自体たいへんロマンティックな由来を持つわけですが、そのほかにもシャー・ジャハンをめぐっては数々の興味深い逸話があり(妃の死で一夜にして白髪と化したとか、「黒いタージ」の計画とか、晩年の幽閉生活とか)、そういったもろもろのロマンティシズムの象徴としても、タージ・マハルは多くの人々の心を捉えているのではないかな、と思います。

旅行者にとっての一般論として、アーグラーについてはタージ・マハルについて言及すればほぼ事足りてしまうとは思うのですが、しかし個人的にはもう一点、書き加えておきたいです。というのは、アーグラーにおけるリキシャワーラ・宿屋・土産物屋・ガイドなどの客引きのくどさ・しつこさは、特筆に価すると思うからです。

インド人のアグレッシブさは、デリーで体験したとおりなのですが、それにしてもアーグラーはひどい、と感じました。インド有数の観光地だから仕方ないのかもしれないけれど、この地の観光業に携わる人々はあまりに観光客ずれしすぎていると思います。無視してもついてくる。断ってもついてくる。散々断ったリキシャさんが、翌日ホテルの門の前に陣取っていた時には、ほんとにうんざりしました。まともに相手をしなければ「実害」はないけれど、しかし、「うんざり」するのです。

アーグラーは、良くも悪くも(あるいはとにもかくにも)、タージ・マハルに尽きるのでしょう。それを求めて集まる人々と、その人々を生活の糧にする人々。

2004.09.01 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

デリーにやって来ました。

多くの旅人にとって今も昔もデリーは「インドの入り口」。この地からインドの混沌へと身を投じた旅人達は、あるいはこの地の人々の活力に圧倒され、あるいは熱気に疲労困憊し、あるいは嫌悪し、あるいは怖れおびえ、あるいはその文化的な豊穣さにとりつかれてしまう。しかしながら、善しにつけ悪しきにつけ、誰一人としてこの地に無関心・無感動ではいられない。インドとは、ひとことでいうとそういう国のようです。

デリーの町は大きく、ムガール帝国時代(あるいはそれ以前)の帝都として栄えたオールドデリー地区と、イギリス統治(植民地)時代に新しく建設されたニューデリー地区とに分けられます。

現在のインドの首都としての機能は、ニューデリー界隈やそれ以南の地区に広がっています。とても近代的な雰囲気で、街路樹の緑が心地よく、「インド的」な喧騒とはほぼ無縁。しかし、これが大国インドのひとつの側面であることは間違いないでしょう。(聞いたところによると、インド一の大都市ムンバイ(ボンベイ)は、ニューデリーに輪をかけて近代的だそうです)

一方、オールドデリー界隈、とくに街道沿いから一歩入った旧市街の雰囲気は、なるほど実に「インド的」です。まず人の多さにちょっと圧倒されます。ひところの原宿・竹下通りのような(たとえが古いなあ)。インドの生活者たちがどっと集まっていて、そこをまた強引にリキシャが通り、自転車が通り、牛が通ります。店は実にさまざまで、色鮮やかな香辛料の粉末を店先に並べたスパイス屋から、バイクの油圧部分だけ売っているパーツ屋まで、たぶんインドでの生活に必要なものは何でも手に入るのでしょう。各定食屋の前には、これは席が空くのをを待っているのか、それとも施しを待っているのか、粗末な衣服の人々が20人くらい、地べたに座り込んでいます。そんな古い商店の連なるちょっと薄暗い街路が、歩けど歩けど、いったい終わりがあるのだろうかと不安になるくらいに続いていました。しかし、やっと迷宮の出口らしきところまでたどり着き、表に出ると、そこは明るく太い街道沿いで、きれいに舗装された路面に自動車が行き交い、その脇には映画館や銀行が立ち並んでいるのでした。いったいこの対比はなんなのだろう? 単に「新旧」とも「貧富」ともいえないような、不思議な感覚を覚えました。

デリーの町の印象は、非常に大雑把ながら上記のような感じです。しかしながら個人的に(しかし多くの旅人が共感してくれるでしょう)一番「インドだなぁ」と思ったのは、この地の人々の活気、エネルギー(良くいえば)。悪くいえば、ずるさ、しつこさ。英語ではこれを「アグレッシブ」(侵略的な・攻撃的な)と表現するみたいです。

ぼくは幸いにも、デリーでは悪質な客引き・旅行会社などに悩まされることはなかったのですが、多くの旅人がまずこの類の洗礼を浴びてしまうらしい(要するに詐欺でお金を騙し取られてしまう)。インド人は手ごわい。百戦錬磨だから、こちらが多少用心していても、運が悪ければこの手の災難は免れないんじゃないかな、と思います。インドの人々は、もちろん悪い人ばかりじゃないけれど、たくましいというか、エネルギッシュというか、「アグレッシブ」なのは間違いないです。それがどの方向に向いているかはともかく。

たとえば、新市街の公園で休憩していたら、靴磨きの男が寄ってきてひとこと、「靴磨かない?」。ぼくはビーチサンダル姿なのですが、まあそれがとりあえず、彼にとっての観光客に対する挨拶みたいなものなんでしょう(他のサンダル姿の外人にも声をかけていたから)。それを皮切りに、いろいろ話しかけてきて、行き着くところ「むこうの店は高い。ノット・インディアン・プライス。みなビジネスだから手数料を取っている。でも、ぼくの知ってる店は、インディアン・プライス。これから見に行こう」。単純で典型的な客引きですけど、でもぼくは、この男の「ビジネスだから」という言葉にはちょっと納得しました。悪質な詐欺や脅迫や窃盗はともかく、物を外国人に高く売ることそれ自体は、そんなに悪いといえないのかもしれないなぁ、なんて思いました。ビジネスとして考えたら、誰だって同じものを高く売りたいよな(日本人だって)、なんて思ったわけです。しかも日本と違い殆どのものには「定価」なんてないわけだから(「相場」というのはあるだろうけど)。だから、もしこの男が「ぼくもビジネスだから手数料を取るけれど、他の店よりは安くするよ」といったら、もっと納得しただろうと思います。

この男に「靴磨きの仕事はどう?」と訊いたら、「ちっともよくない」といってました。そうかもしれないな。みんなサンダルだから。ともあれ、これがたとえばインド人の「アグレッシブ」さの一例。

それからもうひとつ。日中の暑い中、コカ・コーラを飲みながら町をぶらぶら歩いていたら、向こうからゴミを一杯に詰め込んだポリ袋を持った少年達が3人、歩いてくるのが見えました。ぼくはパキスタン以来、ゴミ問題にはちょっと敏感になっていたので、いや感心感心、なんて思って少年達をながめていました。すれ違いざま一人の少年と目が合ったので、ぼくはちょっと微笑みました(「えらいね」というふうに)。するとその少年は、何かひとこと「ごにょごにょ」と言葉を発すると、ぼくが左手に持っていた飲みかけのコカ・コーラのペットボトルをグイとつかみ、さっと奪い取っていきました。一瞬の出来事だったし、またその見事な手際のよさに、ぼくはあっけに取られてしまいました。後ろを振り返って飲みかけのコカ・コーラの行方を確認するのを忘れるくらいに。

もちろん、ぼくのコカ・コーラが単純に「ゴミ」だと判断された可能性もあるけれど、中身は半分くらいは残っていたし、コカ・コーラ目的の「窃盗」の可能性のほうが高いんじゃないかな、と思います。暑かったし、ゴミを拾って歩くのはけっこうな労働だろうし、あるいは、すれ違いざまに発した言葉は「それゴミだよね?もらっていいよね?」だったのかもしれない。今となっては真相はよくわかりません。しかし、自らの体験として、これだけは自信を持って言えます。インド人は子供からしてとっても「アグレッシブ」。

2004.08.30 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

パキスタン北部の「桃源郷」より、プロペラ機で下山(この飛行機からの眺めはかなりなものです、すばらしかったです)。ラホールに1泊し、翌朝パキスタン−インド国境を目指しました。

ラホール駅前より乗合バスに乗って、国境の町ワガまでは1時間ほど。ラホールを出てからしばらくは、通りは商店やら学校やらでとても賑わっていました。パキスタンの現大統領(ムシャラフ氏だったか)は、教育にたいへん力を入れているみたいで、わが国を引き合いに出し「日本には大学が5000校もある。なのにパキスタンは・・・」というような事を言っているらしいです(パキスタン人に「日本に大学は何校あるのだ?」なんて聞かれて、とても困りました)。まあ、そのせいかどうかはわかりませんが、とにかく通りには学校がたいへん目に付きました。

国境手前の最後の町らしき場所(ここがおそらくワガの中心地なのでしょう)で、ラホールからの客はすべて降りてしまって、かわりに大きなズタ袋に日用品を満載にした若い男と少年の2人組み(彼らは日用品のほか別のズタ袋に巨大な氷の塊を入れてバスで運んでいた、4袋も)、古い大きな扇風機を担いだ男、プロパンガスのボンベを持った少年などなど、それぞれ町での使命をはたし帰宅すべしといった風の人々が乗り込んできました。こうなると、バスはもう人々のライフラインそのものといった感じ。

最後の町から10分ほどで、パキスタン側の入国管理事務所に到着。途中車窓から、パキスタン軍の駐屯地らしき場所も見えました。なにしろ壁がすべて迷彩模様なので、間違いのないところでしょう。横には土嚢を積んだ射撃訓練場のようなところもありましたが、ここには黒くずんぐりとした体格の牛たちが、退屈そうにうろうろとしていました。緊張感らしきものは皆無。

しかしまあ、こちらはそれなりの緊張感を持って、パキスタン出国手続きに向かいます。別になにもやましいところはないけれど、出入国ってなんとなく緊張しますね。パキスタン−インドの国境越えは結構厳しい(とくにインド側が)、なんてガイドブックに書いてあったりもして。

パキスタン出国のパスポートチェックはすんなりといくものの(しかし事務員から「チェンジマネーしないか」と声をかけられた。こういうのはもちろん違法ですよねぇ?)、通関手続きで少々てこずりました。5、6人の職員にバックパックの中身を全部ひっくり返され調べられました。

通関手続きをめぐってはいろいろよくない噂も聞いていて、たとえば身に覚えのない「白い粉」がなぜか出てきて、見逃してやる代わりに金をよこせ、というようなこととか、そこまでひどくなくても、ちょっとした品物(日本製のペンやら)を上納するというようなことは、結構あるらしい。いやだなあ、と思っていたら、案の定、制服を着た一番えらそうな男が僕の荷物の中から小さな折りたたみナイフを見つけ出し、「これは危険だから没収する」と言い出しました。飛行機の手荷物検査ならともかく、チーズを切るのがやっとというような小さなナイフを国境で没収されたという話は聞いたことがありません。「ノープロブレムでしょ?」と食い下がりましたが、まったく相手にされず。制服の男はナイフだけ見つけると、あとはもういいよ、という感じで去っていきました。ほかの男たちも「じゃあね、パスポートをなくさないようにね」なんて捨て台詞をはいて、みんないなくなりました。

がらんとした部屋(かなり広かった)で、無残にもぶちまけられた荷物をひとりまたパッキングしなおすというのは、かなり惨めな気分です。フンザで買ったみやげ物の袋なんて、びりびりに破かれてるし。そして、ぼくの折りたたみナイフ! たいした品物じゃないけど、学生時代に旅行先(パリ)で買った、それなりに愛着のあるナイフだったのです。しかし、いまとなっては、ぼくはこう思うことにします。
「ノープロブレム。なにしろ、無事出国できたじゃないか。あのナイフはパキスタンにプレゼントしたのさ!」

・・・というわけで、パキスタンという国には、最初っから最後までやられっぱなしでした。ほんと、よくも悪くも。

さてさて。

出国手続きをすませたものの、国境ライン(ボーダー)まではそこから徒歩で5分くらい、そこからインド側の出入国事務所までも歩いて5分くらいかかります。まあ、たいした距離ではないのですが、何しろ炎天下で(この日の最高気温は39度)、全身から汗が噴き出し頭がちょっとくらくらするくらいの暑さです。

この国境の道では、ちょっと興味深い光景を見ました。

パキスタン側の事務所近くにダンボールを満載した大きなトラックがとまっていて、そこで積荷を下ろしていました。下ろされた積荷は、荷物運びの男たちが頭の上に載せて国境ラインまで運んでいきます。頭上に2つダンボールを載せインド側に向かう男たちの行列、そしてまたトラックへ戻ってくる男たちの行列。例えはよくないかも知れないけれど、それはこっちの穴からあっちの穴へ引越しをする働きアリの行列のように見えました。

国境ラインの向こうでは、インド側の荷物運び人が、同じように行列をなして待機しています。国境ライン上には、「これがすなわち国境である」という証として20センチ幅くらいの白い線が引かれていて、この線をはさんで、パキスタン人とインド人が、お互い線を踏み越さないように、ちょっと背伸びをするようにして、荷物の受け渡しをしていました。このとき、僕は思いました。「国境って、いったいなんだろう?」

そういった荷物運びの男たちに混ざって、炎天下の国境の道をぜいぜい歩き、汗だくでインド側の事務所に到着。室内には、「おつかれさんでした!」というように巨大な扇風機がうなりをあげていて、熱でほてった旅人を強烈に涼ませてくれます。実にありがたい。

そして、インド側の手続きは実にスムーズで、シンプルで、合理的で、近代的でした。良心的ですらありました。こちらとしては、もう一度荷物をぶちまけること(そしてまたパッキングすること)も覚悟していたのですが、そういったこともありませんでした。そんなわけで、ぼくは単純にもこう思いました。「ぼく、インド、好き!」。

こうして、晴れてインド入国。

事務所を出たところには売店があって、ここでちょっと凍ってる冷え冷えのコカコーラを飲みました。最高にうまかった! 一昔前のキャッチコピー、「気分さわやか!」ってやつですね。しばらくすると、子供が2人「コーラちょうだいな」と言い寄ってきました。普段ならその手の物乞いはまったく無視するのですが、なにしろ気分さわやか!なもので、気前よく1本ご馳走してあげました。すると、売店の主人の自称「ジミー大西」氏(本当にそっくりなので大笑い)が、かわりに自分の右手首に巻いていたアクセサリーを僕にプレゼントしてくれました。単純なわたくしはまたもやこう思いました。「ぼく、インド、大好き!」。

・・・以上、長々と国境越えについて書いてしまいました。
ここからは、インド側の最初の都市、アムリトサルについて書きましょう。

アムリトサルは、国境からタクシーで1時間ほど。パンジャーブ州の州都です。このあたりは1947年の印パ分離独立以前は、パキスタン側のラホールとともに、インドでも有数の裕福な地域とされていましたが、分離独立の混乱にあたり、多くの血が流された地域でもあります。もともと、アムリトサルとラホールは同じ州に属していたんですね。それがばっさり、ある日を境に違う国になってしまった、ということのようです。しかし、「横浜と川崎は今日から別の国でーす」といわれたって、それはとても困るだろうなと思います。「今日からこの線を境に、荷物は手渡ししてくださーい」といわれたって。

また、アムリトサルは、シク教徒の聖地としても有名です。

シク教徒のルックスは大変に個性的で、かつてアントニオ猪木と数々の死闘を繰り広げたタイガー・ジェット・シンのような格好をしています。頭にはターバン(ケース)、右手首には鉄の腕輪(カーラ)、ひざから下を出した短パンのようなパンツ(カッチャ)をはき、手には短剣(クーリパン)か槍。さらにこれらに櫛(カンガー)をあわせると、シク教徒必携の5K、ということになるらしいです。さすがに槍をもって歩いている人はごく少数ですが(しかし確かに槍を持って歩いている人がいるのです、この町には)、国境から乗せてもらったタクシーの運ちゃんも黄色いターバンを巻いてたし、多くの人々が熱心なシク教徒であることは間違いないようです。

そして、シク教の総本山、通称ゴールデン・テンプル(正式にはダルバール・サーヒブ)。中央に黄金に輝く本殿。それほど大きくはないけれど、何しろ黄金色で大変に存在感があります。本殿の周りは正方形の堀になっていて、シク教徒はここで水につかったり祈りをささげたりしています。さらにそのまわりは白い大理石の回廊と宗教的な建物の数々。回廊をぐるりとひとまわりすると、さまざまな角度から黄金の本殿と白い大理石の建物郡を眺めることができ、たいへんに美しいです。

ゴールデン・テンプルの周囲の旧市街も大変におもしろい。クリスマスの飾りで使う金色のモールようなものが通りに張り巡らされていて、風が吹くとこれがかさかさと音を立てながら輝いて、不思議な雰囲気をかもし出します。お祭りの中にいるみたい。

それから町は、おどろいたことに、きれいなのです。パキスタンのゴミにまみれた通りを見てきたものにとって、それはほんとうにとても新鮮な驚きでした。だって、朝には通りを掃除している人たちがいるのです!掃除! インドはひょっとしてパキスタン以上に汚いだろう、なんて考えていた自分、ほんともうしわけない。

もうちょっと正確にいうと、やはり旧市街の下水事情はよくないようです。どぶは汚い。でも道路は非常にクリーン(土ぼこりもない)で、朝は店の前を掃除する人々がいるし、その集めたゴミを回収するリアカーみたいのが、狭い旧市街の通りを巡回していたりします。つまり、そこには、町をきれいにしようという意志が確実に存在するのです。そして、意志の存在するところ、かならずや成果はあらわれるものなのです! ・・・そんなわけで、妙に感動してしまいました。

アムリトサルはインドのはずれに位置し、地理的には不便なところにあるので、パキスタンに抜ける(あるいはパキスタンからやってくる)人々、もしくはシク教徒以外に、訪れる人は少ないのではないかと思います。でも、来てみるとけっこう楽しめると思いますよ。とくにゴールデン・テンプル界隈の雰囲気は、イスラムとは違った、もう少し俗っぽい賑やかさがあって。

この先のヒンドゥーの町々も、楽しみになってきました。

2004.08.26 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ギルギットよりカラコルム・ハイウェイをさらに3時間ほど国境側に北上、美しく静かな渓谷の村、フンザにやってきました。

現代の「桃源郷」などと形容されるこの地ですが、実際に滞在してみると、それがまったく大げさにも不愉快にも感じられません。背の高いポプラの木やヒメリンゴ・アンズなどの果樹で緑色に彩られた渓谷。周囲の乾いた岩山の隙間からは、峰に雪をいただいた白く輝く7000メートル級の山々を望むことができます。(フンザの美しさについては、あとは写真に譲ることにします)

フンザの人々は、民族的には他のパキスタン人と異なり、独自の言語(ブルシャスキー語)を話します。実際、この地を支配していた最後の王が1974年に退位するまで、フンザ地域は独立国家でした(いまでも彼らは自分たちのことを「フンザ人」と自称します)。宗教的にはイスラム教イスマイール派で、この宗派はスンニー派などに比べて戒律がゆるいため、滞在していてもあまりイスラムの国だという感じがしません(アザーンも流れない)。人々はどことなくのんびりしていて、素朴な感じです。

フンザでは、ついに酒も飲みました。イスラムにもかかわらず、フンザの人々は昔からぶどう酒や果実酒を自家製造してて(王様の住んでいたという砦跡にはぶどう酒を貯蔵する場所がちゃんとあった)、現在もかなり日常的に飲酒しているようです。今回、その自家製果実酒を飲むことができました。

アンズやリンゴから造った酒とのことなので「杏露酒」みたいな色と味を想像してたのですが、見た目はまったくの透明(地元の人は「フンザウォーター」と呼んでた)。味もほとんど果実の味はしません。ちょうど、日本の焼酎みたいなものでしょうか。

薦められた酒は一気に飲みほす、というのがフンザスタイルだそうで、みんな、その焼酎もどきをくいっ、くいっと飲んでました。自分はほんとうのところ、焼酎がとても苦手なので、いやーまいったなぁとは思いました。しかし、この期に及んで勧められた酒を断るなんて、私個人のみならず日本人の名誉にかかわります。ので、ちゃーんとイッキしてきました。翌日はしっかり二日酔いでした。

混沌のパキスタンにあって、フンザは本当にオアシスのようなところでした。人々も自然も。沈没したい方のみならず、普段忙しい日常を送っている多くの人々にこそ、一度訪れることをお勧めしたいような気がします。(しかし、この静かな村々がそっとそのままであってほしいとも思う・・・)

2004.08.24 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

パキスタン北部地域について、以下ガイドブックの記述をそのまま転載します。

−−−
パキスタン北部はインド、中国、アフガニスタンに囲まれ、東はヒマラヤ山脈、西はヒンズークシの山々、北はパミール高原が広がる世界有数の山岳地帯である。インダス川の水はここから流れ落ちている。この地域は他の4つの州と異なり、中央政府の直轄化にある。1947年の印パ分離独立に伴い、この地域を含むカシミールの帰属が問題となり、第一次印=パ戦争に至る。事実上の支配地域は、第二次印=パ戦争でほぼ固まっているが、現在も互いに領有権を主張している。
−−−

・・・と、政治的には現在も微妙な地域ではあるのですが、6000・7000メートル級の美しくも険しい山々と、それらに囲まれるようにして人々がひっそりと暮らす村々は、多くの登山家や旅行者・バックパッカーにとっての憧れの地のひとつとなっています。

パキスタン北部地域で最大の町ギルギットへは、ラワールピンディーよりカラコルム・ハイウェイの山道をバスで行くこと16時間。カラコルム・ハイウェイとは、北部の山々の間を縫うようにしてパキスタンと中国とを結ぶ幹線道路で、20年ほどの歳月と1000名弱の犠牲者を経て1978年に開通しました。この道路のおかげで一介の旅行者でも北部地域を気軽に訪れることが出来るようになったわけですが、いかんせん道路状態は悪く、ところどころに小さな土砂崩れがあって(崖を切り崩して道路にしているのだから仕方がない)、しかしバスはその上を猛スピードで突っ走っていくものだから、実際にはかなりハードな道程です。控えめにいって、とっっっても揺れます。「がたごと」ではなく「ガシャンガシャン」金属的な音がします。朝、ギルギットに到着した時には、側頭部には複数のたんこぶができ(寝てる間に窓の手すりにぶつけたらしい)、床に脱いでおいた靴は運転席近くまで転がっていました。やれやれ。

ぐるり360度を茶色い岩肌の山々に囲まれたギルギットの町は、想像していたよりも大きな町でした。ここは中国との交易の拠点でもあって、町の西の外れには中国からの物産(毛布や食器など)を売っている地区もあります。しかしともあれ、「下界」の喧騒とはうってかわって、静かで涼しくて過ごしやすい町です。

ギルギットには有名な日本人宿があって、今回はそこに宿泊しました。日本人宿とは、日本人旅行者が多く宿泊する宿のことで、たいていは日本語の本があり、日本語で書かれた情報ノートがあり、場所によっては日本食が食べられたりします。なにより、日本人旅行者が多くいるので、日本語で話が出来るわけです。日本人宿は世界の各地にあるらしいのですが、ぼくはこれまで、1度しかその手の宿に泊まった事はありませんでした(トルコで利用した、そして両腕をこっぴどくダニに食われた)。とくに積極的に避けていたわけではないのですが、とくに積極的に利用しようという理由もなくて(日本語の本は魅力的だけれど、気の合わない人とべたべたと時間を過ごさなきゃいけない事になったらいやだな、と思って。だから、どちらかといえば避けていたかもしれない)。

ともあれ、今回はその日本人宿を利用しました。

宿に到着すると、受付前の小さなロビーにはパンケーキのようなものを食べている若い女性。日当たりの良い庭でベンチでひなたぼっこしながら本を読んでいる若い男性。どちらも洋服ではなくて、パキスタン人と同じ白いシャルワーズ姿。

廊下の本棚には、古い「地球の歩き方」(インド編が多かった。インドからパキスタンにぬけたパッカーがここにおいていくのでしょう)、「バカボンド」「サバイバル」「寄生獣」などのマンガ、日に焼けた雑誌、小説、聖書にコーラン。

僕の部屋は、ロビー横のシングルルーム・トイレシャワー付き(ただし水シャワー)。1泊150ルピー(約300円)。不潔ではないけれど、かといってきれいでもない、典型的な安宿。ロビーから古い昔の日本のフォークソングのカセットテープが流れてきて(壁が薄くて音が丸聞こえなのです)、女性が「これはなつかしいなー」なんて言っています。

とにかく、時間の流れがここだけ違うのじゃないかという気がしました。そして、この時間の流れが居心地よくなったら、沈没なのでしょう。しかし僕は幸か不幸か、目的地とタイムリミットのある旅をしているので、何としても沈没するわけにはいかないのです(半分は冗談ですけれど)。

昼間は町を歩き、夜になってから帰宿。ロビーでは、若い男女が向かい合わせに座って、なにやら話をしていました。ぼくは軽く挨拶をして、自分の部屋へ入りました。

ところが、ぼくの部屋からは、ロビーの男女の会話が筒抜け状態。なんとなくこちらの方が気まずい気がして、ロビーに出て会話に加わろうかとも思ったのですが、男性の方が自分の旅行自慢らしき事を話していたので(ケニアでどうした、エジプトがどうだ、のような)、ちょっとうんざりして、そのまま部屋で黙っていました。

2人の会話は、時間とともにだんだんお互いの緊張を解いていき、より率直な、等身大の内容に変わっていきました。ぼくは、いよいよ盗み聞きをしているような格好になってしまったのですが、そのときには正直なところ、もうその会話から耳をそむけることができなくなってしまっていました。

男性、もうすぐ30歳。私立高校の教師。6年前に長い旅行(たぶん世界一周)を経験。その際に立ち寄り沈没したこの地に久しぶりに帰ってきた。今回は1ヶ月半滞在。明日、日本への帰国の途に。女性、28歳。小児科医。世界一周旅行中。中国、ネパール、インドを経て、現在パキスタン。旅行3ヶ月目。現在、この地から動けない模様。

まず、彼らが同年代だという事に、ぼくははげしく動揺しました。それから、彼らのキャリアというか、生き様というか、人生のスタイルに、嫉妬のようなものを感じました。

もちろん、それぞれのひとにはそれぞれの人生のスタイルがあって、それに自信をもっているならば、他の人の人生のスタイルに嫉妬する必然性など、全くないのです。全く。そのことに気がついて、さらにぼくはひどく落ち込みました。

こうした類のもやもやは、たぶん自分の中には、今回の旅行の前から潜在的にあったのですね。動機の一つとして。今いる場所から一度飛び出してみれば、何かが変わるかもしれない。なにかわかるかもしれない。結果として、変わったこともわかったことも、たぶんたくさんあるけれど、しかし一番肝心な部分については「わからないということがわかった」というような、まったく頼りなく歯がゆい状態なのだ、ということを強烈に突きつけられたような気がしました。

あれれ、日本人宿の話なのか、悩み告白コーナーなのか??

2004.08.21 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ラホールは、パキスタン第二の都市で、インドとの国境から西に24キロのところに位置しています。ムガール帝国の時代(16〜18世紀)には、文化的な中心として多くの宮殿やモスクが建てられました。その名残なのでしょう、現在のパキスタンにおいても、ラホールは文化や教育の中心的な都市だそうです。

確かにラホールは、クエッタに比べると格段に都会的でモダンな印象です。駅前や旧市街は、まあ相変わらずごちゃごちゃしているけれど、南の新市街のあたりはとても落ち着いていて、芝生の公園では若者たちがクリケットに夢中になっています。ちなみに、パキスタン人にとってのクリケットは、日本人にとっての野球みたいなものらしい。(テレビでも、オリンピックよりクリケットの国際試合のほうが優先される)

とはいえ、観光的な見所はやはり、旧市街側にあるバードシャヒー・モスクやラホール・フォート(城砦)、となるでしょう。どちらも、ムガール帝国時代の建物です。
個人的には、バードシャヒー・モスクがおすすめ。イランのモスクはブルーを基調としたタイルによるモザイク模様が特徴的ですが、ここのモスクはじつにシンプルな茶色ベース。派手さはないのですが、不思議と心が落ち着きます。

ラホール旧市街界隈を散策中、ざーっと雨に見舞われました。日本の夕立ちみたいなもので、雨自体はすぐにやんだのですが、その後の道路事情にいささか問題がありました。ラホールもやはり(クエッタほどではないにせよ)下水事情がよくないようで、ところどころで汚水が溢れ出し歩行困難に。ビーチサンダルの身にはいささか厳しい。しかしまあ、こんなことをいちいち気にしていたら、この先やっていけないのでしょう。

あとラホールの印象としては、暑い!です。イランもクエッタも高地で乾燥しているので、日中の日差しは大変厳しいけれど、日陰に入って風にでもあたればかなりしのげます。しかしラホールは、まるで東京のような暑さ(という喩えもなんですけど)。じっとりとして、逃れようのない暑さです。イスラム圏なので短パンはNGだし。雨季でこれだから、酷暑の時期はいったいどんななんだろう・・・。

2004.08.19 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

陸路でイラン−パキスタン国境を越え、パキスタン側の国境の町タフタンよりバスにゆられること18時間、バローチスタン州の州都クエッタにやってきました。

バローチスタン州はパキスタン西部に位置し、面積にして国土の3分の1ほどはあろうかという大きな州なのですが、その大半はイラン高原の荒涼とした砂漠地帯(さらさらな砂の砂漠ではなく、乾いた砂利や岩石が延々続く殺風景な大地)。タフタンからクエッタまでのあいだ町らしい町はなく、ときどき、チャイと簡単な食事を振る舞う休憩所のようなところがあるだけです。われわれの行く一本道と平行して列車の線路も東西に走っているのですが、肝心の列車は月に2本(!)とのこと。そのため人々はみなバスで行き来をする事になるのですが、ご想像の通り、その道程はお世辞にも快適とはいえません。しかし、休憩所に立ち寄って殺伐とした風景の中チャイなど飲んでいると、ああ自分はいま旅をしているなあ、なんて実感することが出来たりします。砂漠に沈む夕日は、空が砂埃で煙っているためでしょうか、周囲を茜色に染める事はなく、まるで満月のようにいつまでも白く光っていました。

そんなこんなで、一晩バスに揺られ翌朝クエッタに到着。バスの屋根に括り付けられていたバックパックもどうやら無事でひと安心(パキスタンでは大きな荷物はみなバスの天井に括り付けるのです)。バスターミナルからスズキ(軽トラックを改造した乗合タクシー)に乗り込んで市街へ。

さて、市街に出て・・・。ぼくは心底、衝撃を受けました。

この驚きを言葉で説明するのは、ぼくの国語力ではとても難しいのですが、端的にいってトルコともイランとも町の雰囲気が全く違いました。トルコもイランも、人の温かさやバザールの活気など、間違いなく「アジア」ではあったのですが、どこか近代的というか西洋的というか(誤解を恐れずにいえば)整然とした「清潔」な部分があったように思います。しかしここでは、これまでヨーロッパからトルコ・イランまで一貫してあったその「清潔」さのようなものが、ついに姿を消したように感じました。そして、この地の根底に流れている精神は、きっとこのままインドや東南アジアの国々へとつながっているのだろうな、と漠然と感じました。

感じたイメージを先にいうと上記のようになるのですが、具体的に町の様子としては、まずゴミがすごーく目に付きます。われわれの感覚からすると単純に汚い。食べ物の屋台などは、その日に出た生ゴミをそのまま路上に捨てていってしまうみたいだし、バザールを歩いているとぺしゃんこに干乾びたニワトリの死骸があるし(何日放置されているのだ?)、下水事情がよくないようで路肩のドブ(流れてないで溜まっている)はかなりの悪臭。その悪臭放つドブの真横で食堂が営業していたり。

道路は、これまたごちゃごちゃしていて、パキスタン名物のギンギラトラックやらギンギラバスやら、これまたギンギラなオートリキシャやら、スズキやら、チャリンコやら、ロバ(ついに登場)やら、果物の屋台やら、実にさまざまな乗り物が、さまざまな音を立て、さまざまなスピードで(ロバで軽く渋滞する)、たいていは人や荷物を満載にして、めいめい縦横無尽に行くわけです。この混乱ぶり・ミクスチャーぶりをみていると、なにやらこちらまで興奮して血のたぎってくる思いさえします。

この「何でもあり」感は、人々の様子についても同様です。バザールのヤミ両替屋の胡散臭さとか、むき出しの生肉が軒先にぶら下がるバザールとか、暴走するロバ(あれで走ると結構速いのです)にしがみついて向こうに消え去った少年とか、四つんばいで歩く片足の不自由なおじいさんとか。いろんな人がいる。たくましくいる。

ぼくは旅を通じて、漠然とひとつ結論じみたものとして「いろいろなところにいろいろな人が生きている」ということを感じていました。いままで行ったことのなかった土地にも確かにいろんな生活があった。

そして今回さらに、この地で感じたのは「もしこれがぼくの世界だとしたら、ぼくは何をして生きているだろうか」ということでした。ぼくはこの世界で、はたしてたくましく生きていくことができるだろうか。

2004.08.17 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

バムという小さな町の外れには、「アルゲ・バム」という不思議な遺跡があります。

アルゲ・バムはかつて、東西交易のポイントとして栄えていた城下町でした(「アルグ」とは「城」の意)。しかし、1722年エスファハンを目指して進撃するアフガン軍のまえに、人々は町を放棄して退散。その後人々はこの町に戻ることなく、したがってアルゲ・バムはそのまま壮大な廃虚となりました。現在でも、土と日干しレンガで形作られた当時の町並みがそのままに残っていて、イラン観光の名所のひとつとなっています。ちなみに、NHK版の「深夜特急」でもアルゲ・バムは取り上げられていて、乾いた土の城と城下町の印象は確かに強烈で、僕もぜひ訪れてみたい場所の一つでした。

ところが・・・

僕自身バムへ向かう直前まで知らなかったのですが、なんと数ヶ月前にバムのあたりで大地震があったそうで、その影響で現在のバムの町はかつての「神戸のような状態」(とあるバックパッカーが形容していた)でした。日干しレンガの家々は地震にもろく、したがってほとんどが瓦解してしまったそうです。一部復旧されてはいるものの、多くの人々はいまもテントでの生活を余儀なくされています。ホテルも全滅とのこと。

そして、壮大な遺跡アルゲ・バムも、甚大な被害を受けていました。城下町は跡形もなく全壊。かつては堂々たる姿をしていたアルグも無残に崩れ去り、一部土台を残すのみでした。ガイドブックの写真と照らし合わせて、「これがこうなってしまったのか・・・」とため息をもらすのみ。

アルゲ・バムの復旧の予定があるのかどうか分かりませんが、おそらく、相当に難しいでしょう。個人的には不可能だろうと感じました。まったく残念。歴史とはこういうものなのかなと感じたりもしました。

そんなわけで、バムで1泊するのはあきらめ、その足でパキスタン国境近くの町ザーヘダーンへ向かいました。

ザーヘダーンの町では人々の服装がこれまでのイランの町とは異なり、男性も多くはピジャムというのでしょうか、ダブッとしたパジャマのような民族衣装を纏っています。女性は相変わらず黒いチャドル姿。

それから、待ちゆく車の半分くらい(は大袈裟かもしれないけれど)は、トヨタの古いハイラックスピックアップ。パキスタンからの買い出しの人が多いため、荷物のたくさん積める車が必要だったようです。僕が国境まで乗ったタクシーも、ハイラックスでした。同乗のパキスタン人の荷物で、荷台部分は満載。でも、なんでみんな「トヨタ」なんだろう。なぞです。

2004.08.15 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

イラン観光のハイライトのひとつと言ってもいいでしょう。有名なペルセポリスの遺跡は、シーラーズからタクシーを飛ばして1時間ほどのところにあります。

紀元前522年、時の大王ダリウス1世の命により着工されたというのですから、実に2,500年以上も前の話です。残念ながら紀元前330年、アレキサンドロス大王の前に陥落、その後の大宴会の際に出火して、ほとんどすべてが灰燼に帰してしまったとのこと。あまりにも悲しい話です。

「悲しい」というのは、現在もその姿をとどめている石柱や宮殿跡などが、ほんとうに、とてもすばらしいからです。とくに、謁見の間の天井を支えていたという石柱群がそびえるさまは立派で、一体ここにどんな空間が広がっていたんだろう、なんて、歴史オンチな自分でも思わず空想をめぐらせてしまいます。

(言葉ではなんとも伝えられないので、のちのち写真をアップできたらと思います。)

2004.08.14 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

エスファハンよりさらに南へ500キロ、イランの「芸術と文化の町」、シーラーズにやってきました。

何ゆえ「芸術と文化の町」かというと、かつてイランを代表する2人の詩人、サアディー(1207-1291)とハーフェズ(1324-1389)がこの町で生まれ、活躍したため(とくにハーフェズはイラン最高の叙情詩人として評価されているらしい)。それぞれの棺のある廟は、現在も参拝客でにぎわっているとのこと。
(町の中心から少し離れているため、ぼくは訪れませんでした)

芸術と文化、のためかどうかはわかりませんが、シーラーズの町には映画館がいくつもあって、僕もちょっとのぞいてみました。外国人だったからか、受付のおじさんは「ウェルカーム!」みたいな感じで、チケットなしでも入れてくれました。こういうところ、イランの人はとても鷹揚です。

映画は途中から見たのだけれど、なかなか凄絶な内容。美しい女性がなぜかドラッグ中毒になっていて、その理由を弟(たぶん)とその友人たちに告白する。愛する先生を殺され、自暴自棄になったところを悪い男にだまされて、薬漬けにされ、金持ちの親父に売り飛ばされ、そこを何とか脱出、現在に至る...みたいな内容。そのヤク中女性の演技がすごくて(目がいっちゃってる)ちょっと気持ちが悪いなあ、なんて思いながら見ていたのですが、気がつくと館内のあちらこちらからはすすり泣きの声。台詞がまったくわからなかったのでなんともいえないのですが、なかなかに感動的というか感傷的な告白だったようです。そういえば弟たちも話を聞きながら涙ぐんでたな...。

それで映画のほうは、弟たち4名の若者が復讐に立ち上がって、木製バットを手に、悪い男のアジトのようなところを襲撃して、そこにいたヤク中どもと悪い男とをぼこぼこにする、というオチ。どうも弟たちは警官か軍人のようなんだけど(そろいの制服を着ていた)、細かいところまではわかりません。木製バットで襲撃(しかも材木屋で特注で作ってもらってた)というのは驚きだったけれど、暴力の描写がハリウッドみたいに演出されてなくて、台本なしの一発撮り、みたいな感じで、妙に生々しかった。ちなみにイランでは、薬物取締りには極刑をもって臨んでいるらしいです。

(映画の話を長々とすみません。ぜんぜん町の説明になってませんね...。)

脱線ついでにもうひとつ。
イランにおいて、僕が個人的に、一番困ったことはなんでしょう?

トイレ?
ノー。いわゆる「トルコ式」トイレは、慣れてしまうとかえって清潔で快適。I'm lovin' it!

言葉?
これはこちらの英語力の問題で、特にイランに限ったことではないので、ノー。(ホテルのフロントなどではたいてい英語が通じます)

食事?
これもノー。トルコ料理ほど旨い!ってわけじゃないけれど、レストランではかなりちゃんとしたケバブ(肉の串焼き)など食べられるし、ピザやハンバーガーなどのファーストフードの店もあって、ハンバーガーはマクドナルドなんかよりよっぽどちゃんとしてます。

正解。
道路の横断、です。

イランの道路事情はテヘランのところでも書きましたけど、産油国ってこともあってか交通量が多くて、しかもみな運転が荒い。そこへもってして、信号というものが街中にもほとんどないんですね。だから、道路の向こう側に渡ろうとしたら、車列のなかにざぶんと飛び込むというか、もぐりこむしかないのです。これが僕にはなかなか至難の業...。

地元の人を見ていると、とくにあわてることもなく、車のちょっとした途切れた隙にゆっくりとした歩調ですいすいと入っていって、車のびゅんびゅん走っている道路の真ん中でちょっと立ち止まったりして、また隙を見つけては向こうまで渡りきってしまうのです。終始ゆっくりとした歩調で。

観察の結果われ思うに、ポイントは「道路の真ん中で立ち止まる」ことができるかどうか、のようです。幹線道路は片側2車線とか3車線あるので、とても一気に渡りきってしまうことはできなくて、一列ずつクリアしていくしかないのですね。だけど実際のところ、車がびゅんびゅん通っていく中で無防備にも立ち止まるということは、慣れない者にとっては相当難しい。イラン人の運転を信用できなければ、なかなか立ち止まれません。(そして僕はいまいち彼らの運転を信用しきれていないのです。残念ながら)

たまに信号のある交差点もあるのですが、普段あまり信号で止まるという習慣がないためでしょうか、車も人も、赤信号だろうがなんだろうが、隙があれば我が道をゆく、という態度で一貫しています。交差点に警官が立っていても、さすがに車は止まっていましたが、人のほうは信号無視で行き来していました。

というわけで、僕はいまだに道路を横断するのに苦労していて、ほかのイラン人の後ろにくっついてそそくさと渡っているような有様です。

その土地ごとにいろいろなローカルルールがあるけれど、ある種のものは確かに、新参者にはなかなか馴染めなかったりしますね...。中国のマンホールとか。

2004.08.11 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

エスファハンは、テヘランから南へ300キロほどのところにある、イランでもっとも美しいといわれる町です。最盛期は17世紀ごろで、そのころには「エスファハンは世界の半分」と讃えられたそうです。

市街には緑が多く、歩道も広く歩きやすくて、確かに、喧騒渦巻くテヘランに比べたらオアシスのような町です。

エスファハンの一番の見所は、エマーム広場界隈でしょう。イランの透き通った空に浮かぶモスクの丸いドームは、そのモザイク模様のタイルがきらきらと輝いて、本当に美しい!モスク内の丸天井のモザイクも、実に見事です。

また、町の中央付近には、よく手入れをされた大きな公園があって、金曜日(イランの休日)には、木陰の芝生にカーペットを広げてくつろぐ家族や、サッカーやバトミントンやチェスを楽しむ人々で大変にぎわっています。公園の一角にはちょっとした遊園施設があって、子供たちはそこで大いにはしゃいでいました。ここの観覧車(といっても座席は6脚ほど)は、わかい男が手でぐるぐる回していて、ちょっとびっくり。

町の南には川が流れていて、白鳥型のボートにのったファミリーやカップルの姿も。なんだか、自分がこれまで想像していたイランのイメージとあまりにもかけ離れた光景だったので、思わず笑ってしまった。
(白鳥ボートと、自分自身を)

2004.08.09 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

テヘランには、飛行機で入国しました。そのせいも多少あるかもしれないけれど、テヘランに到着したときは、今回のたびを通じて一番「あぁ、文化の違う国に来たんだな...」と感じました。結構、ガツンとやられた。(アラビア文字の印象が強烈だったのかな)

テヘラン空港に深夜2:30到着だったので、空港は閑散としているのだろうと思っていたら、とんでもない!到着出口付近は、深夜にもかかわらず出迎えのイランの人々でごった返していました。うーん、パワフル。

朝になってからタクシーで待ちに向かったのですが、テヘランの道路はまったくものすごいことになってました! 大げさじゃなく車とバイクの洪水。しかもみんな運転が荒いなんてもんじゃない。車線なんて完全に無視して縦横無尽に駆け回っている感じ。もうぐちゃぐちゃ。なぜ事故にならないのか本当に不思議でたまりません。それから、空気がものすごく悪い。アンカラなんて目じゃない。息が苦しいだけじゃなく、目までチカチカしてくる有様(たぶん光化学スモッグだと思う)。もちろん騒音もすごいし、とにかく、これはすごいところに来ちゃったなぁ、と、思わず笑ってしまうほどでした。

ちなみに、このひどい交通事情を改善すべく、テヘランでは今地下鉄を随意建設中とのこと。路線図を見ると「9号線」まで描かれているけれど、現在運行しているのは。1号線、2号線、それから5号線の一部(3駅分)のみでした。

1979年の「イラン革命」直後に人質事件のあったという、旧アメリカ大使館を見てきました。旧アメリカ大使館はとても広い敷地を持っていて、周囲をぐるりと歩いたら10分ぐらいはかかりそうです。革命以前の両国の関係が、自然とおもんばかられます。正面入口右側には「'DOWN WITH U.S.A」(アメリカを撃ち落せ)の落書き。また別の壁面にも、アメリカを揶揄するようなペインティングがいくつもありました。僕は別に親米派なわけではないけれど、率直に言って、やっぱりこういうのは気持ちよく感じなかった。こういうのはやめたほうがいいよ、と思いました。落書きが書かれたことよりも(それはひと時の感情の高まりの表現だとしても)、その落書きが今に至るまで消されずに放置されていることに、強く憤りを感じました。

滞在したホテルのマネージャー氏(とても親切で知的な雰囲気のある人)と話す機会があったので、難しい質問だとは思いますが、と前置きしたあとで、アメリカのことをどう思うか、尋ねてみました。彼自身は特に反米感情はなく「テクノロジーの優れた国だ」といっていました。「でも、アメリカはイランのことを悪い国だと言っているし、もしかしたら、攻撃してくるかもしれない、僕はそれをとても心配しています」というと、「イランはイラクとは違う、ほかの国を侵略したり、核兵器を作ったりしていない、だからその心配はないだろう」とのことでした。とての冷静な回答だと思いました。ちょっと感情的だった自分が恥ずかしいぐらいに。

一般論としていえるかどうかはわからないけれど、少なくともある種の国においては、政府側の考えと市民側の考えとがかなり乖離してしまっていると思う。そして、国家間の関係においては、市民の考えなんて完全に無視されてしまうし、またわれわれのような他国の市民も、往々にして、その国の政府側の考えなり態度だけを見て、その国を価値判断してしまうようなところがあると思う。なかなかに難しい問題です...

ホテルのマネージャ氏は、いまパソコンに凝っているようで、自分のホテルでインターネットカフェを始めたい、それからホテルのホームページを作って、そこからオンラインで部屋の予約ができるようにしたい、と熱っぽく語っていました。HTMLは「フロントページ」で作ればよいか?データベースはどうすればいい?JavaScriptは?Flushは?ASPは?...と、こちらが回答に困るような実にテクニカルなことまでたずねてきました。確かにうまく答えられなくてちょっと困ったけれど、すごくポジティブなマネージャ氏の様子は、なんだかとてもうれしかったです。彼のホームページが完成したあかつきには、このブログからもぜひリンクしましょう!

2004.08.06 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

カッパドキアは、だいたいトルコの真ん中あたりに位置しています。このあたりは、本当に不思議な形をした岩々が点在していて、何でこんな風になっちゃったの君は?ってたずねたくなるくらい、印象的な光景です。(ぜひ写真をお見せしたい!)

カッパドキア地方は、関東平野ほどの広さがあるそうで、そのため、個人旅行者でも地元のツアーに参加するのが一般的だそうです。そこで、自分もツアーのひとつに参加して、カッパドキアの名所を見て回りました。月並みな表現でほんとに申し訳ないですが、すごく、よかったです。(写真がアップできるようになったら、また感想を書いてみようと思います)

また、トルコの伝統的な踊りも見てきました。トルコの踊りというと、ベリーダンスが有名ですけど、実に複雑なリズム(2+2+2+3の9拍子とか)にあわせて細かくステップを刻む男性の踊りは、一見の価値あり!ベリーダンスも(もちろん)見ましたが、あの腰の動きはすごい!

みなさん、カッパドキアはかなりグッドです!

2004.08.03 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

アンカラは、現在のトルコ共和国の首都、行政的な中心地です。

イスタンブールが、歴史的に常にトルコ地域の中心であったのに対し、
アンカラは、アタチュルク氏によるトルコ近代化政策の結果として作られた都市、
という側面が強くて、あまり観光的に魅力のある町ではありません。
(ビザ取得のために仕方なく立ち寄るという人が多い。自分もそう)

歩いていて思ったのが、町がとにかく埃っぽい!
バスが多いのでその排気ガスのためだと思うのですが、喉の奥ががさがさするような
空気の悪さ。とくに旧市街ウルス界隈はひどい。これにはまったくうんざりでした。

面白かったのは、ウルス地区の外れにあるアンカラ城。
城壁の中には古い街並が残っていて、現在も人びとがそこで生活をしていました。
狭い路地はまったく闇雲に入り組んでいて、歩いていると方向感覚が麻痺してくるよう。

城の横には公園があり、日曜だったこともあってか、
地元の人々がたくさん木陰でチャイを楽しんでいました。
日本人が珍しいのか、チャイを飲んでいけと声をかけてくる人たちがいて、
ありがたく、チャイとトマトとひまわりの種をごちそうになってきました。
こういう親切は本当にうれしかった。

しかしながら、全体的にはアンカラではうんざりすることが多かったです。残念ながら。
(いちいちは書かないけど、ほんとに腹の立つこともあった!)

2004.07.31 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

イスタンブールから東へ、サフランボルという小さな町にやってきました。
サフランボルは、ガイドブックには以下のように説明されています。

--*--*--
黒海から50キロ内陸、人工42,000人。町は11世紀末からオスマン朝の17世紀にかけて
隊商都市として発展した。旧市街チャルシュには、上階が張り出し土壁に木の窓枠が
並ぶ独特な木造家屋が数多く並んでいる。昔ながらの民家は18〜20世紀初に建てられた
ものだが、これだけまとまって残っているのは珍しく、サフランボル旧市街として
1994年に世界遺産に登録された。
--*--*--

「昔ながらの民家が残る町並み」「世界遺産」ということなので、日本でいうならば、
さながら飛騨の白川郷といったところでしょうか。

旧市街には、小さなモスクとハマム(風呂屋)と屋根がブドウ棚のバザールがあって、
そのまわりには、菓子や布や民芸品といった土産物を売る小さな店が軒を連ねています。
10分も歩けばぐるりと一周できてしまうくらいの、ほんとうにこじんまりとした町です。

町の中心をでて丘の斜面沿いにのぼっていくと、たしかに2階部分が路地側にせり出た
独特の形状の古い民家が並んでいます。
玄関口の日陰でおしゃべりをしているおばさんたちや、セメントのようなものをこねて
壁の修復をしているおじさんたち。

ロカンタ(定食屋)では、その店の息子であろう小学生ぐらいの男の子が、父親とともに
てきぱきと給仕をしています。その手際のよさはちょっとした驚きでした。
泊まったペンションでも息子が受付をしていたし、ここの子供たちはとても働き者です。

旅の途中、立ち寄った町の居心地のよさゆえ、そこから動けなくなってしまうことを
バックパッカー用語で「沈没する」というらしいのですが、
サフランボルは、かなり観光地化されてはいるのですがそれでもなお、ちょっとここで
沈没してもいいかな・・・と思わせるような雰囲気を持っています。

イスタンブールの活気も、サフランボルの素朴さも、トルコなんですね。

2004.07.29 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ルーマニアのブカレストを経由し、ブルガリアを突っ切って、ヨーロッパとアジアの架け橋、
イスタンブールにやってきました。いよいよアジア圏に突入!

しかし、あれれ?と拍子抜けするほど、駅周辺の街並みは西洋的に都会です。
トラム(路面電車)は最新式でエアコンばっちり、ここはドイツか?

イスラムの国だなぁーと実感したのは、巨大なドーム型の屋根と四隅に尖塔を構える
モスクがトラムの窓から見えたとき。その均整の取れた堂々たる姿は、この地がかつて
大帝国の首都=世界の中心であったことを想像させるに十分な貫禄と美しさを備えています。

イスタンブールはおおきな街なので、観光的な見所がいろいろあって、数日の滞在では
とても全部は回り切れませんでした。

また、そういった見所よりも、ぼくがいたく感銘し興奮したのは、
現在の近代的なイスタンブールにも確かに残っている、きわめてアジア的な喧騒です。
ヨーロッパをしばらく周ってきた身としては、それは大変に新鮮で、また幾分懐かしく感じました。

有名な「グランバザール」の界隈とか(地元の人いわく、ここで物を買ってはいけない。
市価の3〜5倍の価格)、ガラタ橋のたもとのサバサンド売りのおやじの掛け声とか、
いろんな商売人、たとえば体重計を地べたにおいて一計りいくらのおじいさんとか、
ポリバケツに氷をいれてペットボトルを冷やして売る少年とか、乾電池やとか、
リモコン屋(いろんなリモコンだけ売ってる)とか、橋の上の貸し釣竿屋とか、
歩いているだけでわくわくするし、面白くて顔がにやけてきてしまいます。

ガラタ橋ちかくの何とかバザールの界隈をうろうろしていたら、問屋街のような場所に
迷い込んだのですが、ここが最高に面白かった。

場所ごとに大体売るものが決まっていて、たとえばこの界隈は金物屋街、ここは陶器関係、
ここは文房具、ここはおもちゃ、ここは紐屋(紐だけ売ってる)、なんて感じになっています。
またその1件1件が、たとえば文房具だったら、ペンだけ(紙は売ってない)、セロテープだけ、
みたいに、こんなので商売になるんだろうかというような内容の店ばかりです。
(秋葉原のガードしたとか、蒲田のユザワヤみたいな雰囲気でしょうか)

桶屋の店先で、実際に桶を作っていたので、しばらくそれを眺めていたら、
店のおじさんが「フォト、フォト」という。写真を撮ってもいいよ、ということらしい。
ありがたくぱちりと写真を取らせてもらうと、こんどは自分の名刺を差し出して、
「ポスター、ポスター」とのこと。ポスターにするので写真を送ってくれ、ということなのでした。

布屋の界隈では、みな軒先に布(女性のスカーフ)をぶら下げて看板代わりにしています。
それが、風に吹かれてひらひらとはためいていて、路地全体をふんわりと彩っていて、
なかなかの光景でした。そこでぱちりとその様子を写真に取ると、店先にいた若者2人が
じぶんたちの写真をとってくれという。そして名刺を差し出して・・・。
(トルコの人は、みな写真がすきなんでしょうか?)

そんな感じでうろうろしていると、よこからちりちりと風鈴のような音がしてきます。
ふとそちらの方を見ると、それはおじさんが店先に腰を下ろして、ちいさなチャイのグラスを
ティースプーンでかき回している音なのでした。

トルコはいま、国を挙げてEU加盟を目指しているそうですが、それはまあそれとして、
がやがやとした喧騒は、ぜひとも失って欲しくないものです、と思いました。

特に、アジアの東端の某島国では、そういったものはほとんど失われてしまっていますので。

2004.07.25 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ブダペストは、プラハやクラクフと並んで、旧東欧圏を旅する旅行者に人気の街のようです。

雰囲気としては、ウィーンみたいに上品ではないし、プラハのように街並みに統一感があるわけでもないのですが、その気取らない感じがかえってほっとさせるというか、魅力的に感じます。街の人もとても人懐っこいです。

ブダペストの中央には南北にドナウ川が流れていて、その西側はオーブダ(旧ブダ)とブダ地域、東側はペスト地域です(オーブダ・ブダ・ペストが合併して今日のブダペストとなったのは1873年のこと)。

地理的には、ブダ側は丘陵で、ペスト側は平地。また、ブダが中世の都として栄えたのに対し(王宮がある)、ペストは伝統的に商業を中心に発展した街だそうです。東京でいう「山の手」と「下町」のように、ブダ出身の人とペスト出身の人とでは性格が違うとまでいわれるほど、対照的な両者です。旅行者にとっては、それだけ見所が多い街だということができます。

実際、ブダペストは見所がたくさんあります。王宮しかり、教会しかり、中央市場しかり。ドナウ川クルーズしかり。緑も多くあって、ドナウ川のマルギット島は、芝生の上で日光浴を楽しむ地元の人でいっぱいでした。

また、なんといっても温泉!

ハンガリーは温泉大国で、ブダペストにもたくさん浴場があります。僕は2箇所行きましたが、ひとつはセーチェニという、安くて比較的新しい、市民向けの温泉。屋外の温水プールに水着で入ります。「風情」みたいなものは全くないけど、温泉に入り、泳ぎ、日光浴をし、というとっても健康的な浴場でした。

もうひとつは、ゲッレールトという温泉。こちらは屋内で、日本の風呂屋のような雰囲気です。脱衣所で裸になると、おじさんがフンドシのようなエプロンのようなものをくれて、それを腰に巻いて前を隠して入浴します。でもなぜか、なかにはそれで尻を隠している人もいて(「頭隠して尻隠さず」ならぬ「尻隠して前隠さず」状態)、それが積極的に何かを意味しているのか、それともたまたまそうなっちゃったのか、自分には判断がつきかねました。何人かそういう人がいたのでびっくり。

浴室内はモザイクのようなタイル張りで、これは何風っていうんだろう、オリエンタルな感じがしました。トルコの影響なのかな。お湯は、ぬるめと、すごくぬるめの2種類で、お湯の量はたっぷり。気持ちよさそうに泳いじゃう外人さんもいて、そういう人は日本では絶対に叱られると思います。とにかく、大変気持ちの良い温泉でした。

僕はちょうどブダペストで30歳の誕生日を迎えたのですが、その日は温泉でのんびり、三十路後の人生および目前のフンドシ問題などを考えておりました。

2004.07.21 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

Croatia no shuto, Zagreb ni kite imasu.

Ooku no kuni no baai, shuto ga sono kuni no mottomo ookina machi de aru kotoga ooi node,
shuto wo miruto, sono kuni no kokuryoku mitai na mono ga nantonaku kanji raremasu.
Sono imi de iuto, Zagreb ha totemo kakki ga aru machi de, Croatia no genzai no ikioi wo
hanei shite iruna.., to omoi mashita.

Motto kurai, jimi na machi dato souzou shite itano desuga, Zagreb ha akarui machi desu.
Old Town mae no main street niha, samazama na mise ga noki wo tsuranete imasu ga,
nakademo, kojyareta youhuku ya accessary wo utteiru boutique ga taihen me ni tsukimashita.
Croatian ha 'oshare' nanode shouka?
(Hamasaki Ayumi mitai na ookina sunglass wo kaketa lady mo chirahora)

Ochitsuita machinami to, modern na huniki ga, umaiguai ni mix sarete ite, kanji ga yoi desu.
Htobito no yosooi mo akaruku, tenkou nimo megumarete imasu.
Adriatic Sea deno resort mo arushi, Croatia tte, kanari good na kuni dato omoimashita.

'Milco Crocop' dake jya nai ne.

2004.07.19 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

Dubrobnik kara bus de 7h hodo de, Sarajevo ni touchaku shimashita.

Bosnia-Herzegovina to ieba, 1995 made doronuma no minzoku hunsou ga atta kuni desu.
Soshite ima nao, minzoku kan no kinchou ha kanzen ni kaishou sareta toha iigatai youdesu.

Kokunai no omo na minzoku ha, Serbian, Croatian, Muslim, no 3 minzoku da soudesu ga,
motomoto korera no minyoku ha, mina onaji 'Slav' minzoku de, jinshu mo kotoba mo onaji,
tada, sinkou suru shuukyou dake ga kotonaru noda soudesu.
(Croatian...Catholic / Serbian...Orthodox Eastern / Muslim...Islam )
Nippon jin no kankaku kara suruto, nandaka okashi na kanji ga inamema sen.
(Budist to Cristian ga chigau 'minzoku'??)

1992 - 1995 no hunsou ha, kantan ni ieba, Croatian&Muslim vs Serbian, Croatian vs Muslim
no ryoudo arasoi deshita.
Sarajevo deha, 1992 kara Serbian ga shinai heno kougeki wo kaishi shi, 1995 made ni
10,000 ijyou no hitobhto ga hunsou no gisei (nan no tame no gisei?) ni natta sou desu.
Olympic Stadium waki no bochi ha, maatarashii shiroi bohi de umetsuku sarete imasu.
(sono ooku ha, Muslim no mono)

Genzai demo, shinai niha hunsou no kizuato ga namanamashiku nokotte imasu.
Hodou no itaru tokoro ni, kuma no ashiato no you na ana ga ari (hougeki no ato),
Shuugou-jyutaku no kabe ha jyuugeki no tame, deki no warui 'pancake' mitai ni,
bokoboko ni egurete shimatte imasu.
Itaru tokoro ni haikyo ga ari, hodou no waki niha, jirai de gisei ni natta wakamono wo itamu
kinenhi ga zassou ni umorete imasu.
(genzai mo shinai no jirai tekkyo ha kanzen niha kanryou shite imasen)

Sarajevo no Hitobito ha, souitta naihun no kizuato no nakade, hibi seikatsu shite imasu.
Machi no chushin niha Atarashii Building ga tachi, kansen douro ha kirei ni hosou sare,
kabe no ichibu ha arata ni nurikaerare tari shite imasu.
Shikashi, madamada hukkyu shikirete inai kizuato ga itarutokoro ni atte, hitobito ha,
ana no aita hodou wo aruki, boroboro no kabe no apartment ni ima mo sunde imasu.

Souchou(5 o'clock) niha, Islam no Koran no shirabe ga shizuka na machi ni hibiki watari masu.
Hitobito ha, donna omoide, kono shirabe wo kiite iruno darouka.

2004.07.17 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

Ljubljana kara ressha de minami ni kudari, Croatia no Rijeka toiu minato machi ni yatte kimashita.

Souchou no ressha de, ainiku tenki mo warukatta no desuga, tunnel wo nuketa shunkan ni,
yamayama no aida kara Adriatic Sea ga mieta toki niha, chotto kandou shimashita.
Adriatic Sea no kaigansen ha, sugu yama no shamen ni natte ite, akai yane-gawara no ieie ga,
sono shamen ni hebaritsuku youni, aruiha, umi kara yama wo shinsyoku suru kano youni,
missyuu shite sonzai site imasu.
Sono yuuki-teki na koukei, blue to red no iro no taihi ha, totemo subarashii nagame deshita.

Rijeka no machi ha, Croatia saidai no boueki-kou de, mata Adriatic Cruise no kyoten demo arimasu.
Kokokara, oogata ferryboat ga Adriatic Sea zoi no machi ya shima, aruiha Italy ni mukete syukkou shiteimasu.
(Boku ha, zehi kono ferryboat ni notte, Adriatic Cruise shite mitakatta no desu!)

Rijeka wo 20:00 ni syukkou shi, Dubrovnik toiu machi ni touchaku shita noha, yokujitsu no 15:00.
Adriatic Sea ha, hontou ni deep blue de, nami mo odayaka de, subarashikatta.
Croatia no yamayama no mukou kara asahi ga noboru koukei mo, very nice! deshita.

Dubrovnik ha, 'Adoria-ka no shinjyu' nante yobaretari suru soudesu ga,
tashikani, taihen utukushii machi desu.

Old Town no mawari ha, gururi to jyouheki ga torikakonde imasu. Sono nagasa 2km hodo.
Kono kabe no ue wo aruku koto ga deki, machi to Adriatic Sea wo ichibou suru koto ga dekimasu.

Old Town no naka mo, taihen omoshirokatta.
Main Street kara ippo soreruto, usugurai 2-3 m hodo no haba no roji ga musuu ni atte,
sono semai roji ni bar ya restaurant ga attari shite, hushigi na kanji desu.
Mata, yama gawa no roji ha kaidan ni natte ite, nobotte ikuto, ippan no jyuutaku ga ari,
obasan ga sentaku-mono wo hoshite itari shimasu.
Kato omouto, jyouheki no mukou ni Adriatic Sea ga mietari shite, iroiro na hyoujyou ga atte,
akiru koto ga arimasen.

Sorekara, mochiron, kaisui-yoku ha very good!
Iwaba no tame, umi ha sugu ni hukaku natte, mizu mo tsumetakute, oyogu to totemo kimochiii.
deep blue no Adriatic Sea ni ukabi nagara, kumohitotsu nai sora -- sokoni sora ga arunoka
wakaranaku naru gurai toumei na sora -- wo nagametari suruto, jibun no karada made
hyouhaku sareru youna ki ga shitekimasu.

Sonna wakede, sukkari 'resort' shite simatta okumiya nano deshita.

2004.07.14 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

SLOVENIA no shito, Ljubljana ni kimashita.

Kyuu 'Yugoslavia' no jidai, Slovenia ha mottomo keiyaiteki ni yutaka na kuni datta soudesu.
Soreyue nanoka, kyuu Yugo kara saisho ni dokuritsu wo hatashita nomo, Slovenia deshita.
Hokano kyuu Yugo no kuniguni ga, (Macedonia wo noyoite) ookare sukunakare,
dokuritsu sensou ya minzoku hunsou no higai wo ukete iru noni kurabe,
Slovenia ha, hikakuteki, souitta higai ga sukunakatta youdesu.
Souzou shiteita yorimo, anzen de heiwa de yutaka na inshou wo ukemashita.

Ljubljana ha, Wien ni kuraberuto, jitsuni compact na machi desu.
machi no chuuou ni, suiro no youna chiisana kawa ga nagarete ite,
sono dotezoi ni, cafe ya restaurant ga noki wo tsuranete imasu.
Dote kara ippon haitta hosoi roji mo douyou ni, samazama na shop de nigiwatte imasu.
Taihen kanji no ii machi desu.

Ljubljana kara bus de 1.5h hodo ashi wo nobashi, 'Lake BLED' nimo ikimashita.
Migoto na keikan deshita! (photo wo omise dekinai noga zannen desu...)
Rent-a-bike de, kohan no cycling wo tanoshimi mashita.
Konnahuuni nonbiri shita noha, jitsu ni hisashiburi desu...

2004.07.11 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

音楽の都、ウィーンです。

ドナウ川沿いの3都市、ウィーン〜ブラチスラヴァ〜ブダペストを結ぶ船があるということなので、
ブラチスラヴァからウィーンまで、ドナウ川をさかのぼる形でやってきました。

しかし、この船というのが、いわゆる水中翼船というやつで、
船全体が平べったいカプセルのような形をしていて、航行中お客はその外に出ることはできません。
想像していたような、川沿いの風景をデッキから楽しむ、といったような風情はどこにもありません。
ですから、ドナウ川クルーズも、ぼくとしてはあんまりお勧めできません、よ。(そんなのばかりです)

ウィーンの街は、ひとことでいうなら、「上品」という言葉がいちばんふさわしいと思います。
(すくなくとも、バックパックを背負って歩くような街ではないことは確か)

建物も、バロック様式というんでしょうか、わりと重厚で空間のひろい建物が多いようです。
旧市街の中央には、ゴシック様式のシュテファン寺院があり、街のシンボルとなっているのですが、
街全体の雰囲気からいって、ちょっと場違いな感さえ覚えました。率直な感想として。
これまで見てきた街、プラハにしてもクラクフにしても、そんな印象を受けたことはありませんでしたので、
これはちょっとした驚きでした。

夜のウィーンの街の美しさは、文句なく格別です。
ハプスブルク家の王宮だったホーフブルク界隈は、その壮大な建築物すべてがライトアップされるので、
暗闇に白く輝くそのさまは、まったく見事としかいいようがありません。圧倒される美しさです。

コンサートにも行きました。

7月8月は、オペラ・コンサートのオフシーズンなので、心配というかほどんどあきらめてたのですが、
調べてみると、この時期にもちょこちょこコンサートは開かれているようです。
ちょうど滞在期間中には、「ウィーン・モーツァルト・オーケストラ」なる楽団が、あのオペラ座で公演するらしい、
しかもチラシをみるとこの楽団、みんな18世紀当時の格好(衣装・かつら)で演奏するらしいのです。
ちょっとおもしろそう、しかもオペラ座!、ということで、さっそく行ってまいりました。

オペラ座は、広さでいったらそれほど大きいということはありません。
(音響とか観劇のことを考えたら、このくらいが適当なのでしょう)
しかし、建物の雰囲気は、さすがに歴史というか、風格すら感じさせます。
天井には、UFOのような巨大なシャンデリアがでんと構えていたりして。

僕の席は4階の正面3列目で、ちょうど真上からオーケストラを見下ろすような形でした。
観客は、ほとんどが白人の観光客、熟年カップルが圧倒的に多い。
(マナーが悪くて、演奏が始まってもストロボをたいて写真をとったりする。さいあく)

そんなこんなで、わくわくしながら待っていると、いよいよオーケストラが入場。
みんな、たしかに18世紀の格好です。かつらをかぶって。おおー、さすが本場。

ぼくは趣味で打楽器をかじっているので、どうしてもそちらを注目してしまうのですが、
打楽器奏者は3人、ティンパニ、トライアングル、バスドラム、と並んでいます。
しかし妙なことに、トライアングル奏者が、隣のティンパニをチューニングしだしました。
そうかそうか、ティンパニ奏者はえらいから、自分ではチューニングしないんだ、さすが本場。

指揮者が入場し、いよいよコンサートの開始。1曲目はモーツァルトのなんとかいう序曲。
はっきりいって、上手じゃなかった(あれれ?)。
しかしまあ、1曲目だしな、これからこれから、ふんふん、と聴いていたのですが、
ティンパニの音を聞いたとたん、びびりました。

チューニングが、半音くらいずれてるんですわ、これが。大げさじゃなく。
「18世紀のティンパニは半音低くたたくこと」と教わるんでしょうか。本場では。
当のティンパニ氏は、楽しげに頭など揺らして、気持ちよさそうにたたいているのですが、
(でもたたき方もあまりにも素人くさいので、ちょっと怪しいなと思った)
明らかに、「C」の音が低い。低いったら低い。

ほんとに、帰ろうかなと思いました。
大してうまくない演奏に、半音低いティンパニ。観光客相手のインチキバンドなんじゃないか。
45ユーロも出したのに。(ちなみに僕の滞在している安ペンションは1泊29ユーロ)

曲の途中で、トライアングル氏がおもむろにティンパニのほうを向き、
キュキュッとティンパニの皮を締めました。ちょっと胸をなでおろす僕。
やはりモーツァルトの時代にも、ティンパニは半音低くてはいけなかったのです。
しかしなぜ、ティンパニ氏は自分でチューニングをしないんだろう?

そのなぞは、1曲目が終わったあとで、明らかになりました。
演奏が終わると、ティンパニ氏はおもむろに席を立ち、オーケストラの中央へ進み、腰をおろしました。
その手には、なぜかフルートが。

ティンパニ氏は、実はフルート奏者だったのです。
そして、トライアングル氏こそが、本当のティンパニ氏だったのです。
(バスドラム氏も、本職は別の楽器だった模様)

人手の足りない素人バンドなら、珍しい話ではないですが、
さすがに本場の「ウィーン・モーツァルト・オーケストラ」で打楽器奏者が「トラ」だったのは、
かなりびびりました、笑いました。
(この時代の曲って打楽器の出番ほとんどないですからね。あってもティンパニくらいで)

オーケストラのほうも、2部にはいって「フィガロの結婚」とか「魔笛」とかメジャーな曲になると、
安心して聴くことができました。さすがにこなれています。

アンコールは、「美しき青きドナウ」と「ラデツキー」。
モーツァルトじゃないけど、ウィーンの定番中の定番ということで、観客も納得。
ラデツキーではニューイヤーコンサートよろしく、たのしく手拍子してきました。

ちなみにティンパニ氏(元トライアングル氏)はこのとき、
ドラムセットとティンパニを横に並べ、ひとりでティンパニ・スネア・バスドラム・シンバルをこなしていました、とさ。


結論。「本場の」音楽を楽しみたいのならば、夏のウィーンに行ってはいけない。

では、この時期、ウィーン子がどうやって音楽を楽しんでいるのかというと、
「フィルムフェスティバル」と称して、市民会館前の広場に巨大スクリーンを立て、
そこで昔のオペラやコンサートを上演しているんですね。
(小沢征二指揮のガーシュイン(2003)とか、カラヤン指揮のなんとか(1985)とか)

いずれにせよ、ウィーンは「音楽の都」に間違いはないようです。

2004.07.09 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

Bratislava ha, Slovakia no shuto desu.

Rekishi teki niha, Slovakia ha nagai aida, Hangary teikoku no ichibu to shite sonzai shi,
Czech-Slovakia Republic seiritsu(1918) ya, the Second World War wo hete,
genzai no katachi de dokuritus kokka to natta noha, 1993 no koto desu.
(Czech tono renpou-sei no kaishou)

Ichijiki, Bratislava ga Hangary teikoku no shuto datta koto ha aru monono,
zentai to shite miruto, Slovakia ga rekishi no omote-butai de hanabanashiku
katsuyaku shita toiu koto ha, hotondo nakatta you desu.

Souitta wake de, Bratislava no machi ha, Praha ya Warszawa ni kuraberuto,
totemo kojinmari to shita inshou wo ukemasu.
Manman to mizu wo tataeru Donaj-river no koukei to,
ikutsuka no kenchiku-butsu no hokaniha, meatarashii mono ha arimasen.

Shikashi, sono kojinmari to shita machinami, kidoranai huniki ni,
boku ha igaini koukan wo oboe mashita.
shigeki teki deha nai kedo, hutuu ni sumiyasusou na machi, toiu kanji desu.

2004.07.07 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

Sate, "Pilsner" beer no hassyou no chi, Czech Beer no souhon-zan, Plzen desu.
Plaha kara ressha de 1.5h hodo no tokoro desu.

Beer Brewery wo kengaku shi, aozora no moto, dekitate no 'Pilsner Urquell' wo nomu,
toiu kojinteki yabou wo migoto hatashite kimashita.

Shikashi, ketsuron kara iimasu to....
'Pilsner Urquell' ha, boku no konomi no aji deha nakatta...

Kore ha, mattaku motte konomi no mondai nanode, shikata nai no dakeredo,
kitai ga ookikatta dake ni, chotto gakkari deshita.
(okage de, kaze wo hikimashita. (yatsuatari) )

Czech Beer niha, mochiron, 'Pilsner Urquell' igai nimo takusan no Beer ga ari,
Beer Hall ni yotte ha, jikasei no Beer wo dasu mise mo arimasu.
Sorezore ni ajiwai ga chigai masu.
Sonoatari ga, 'Beer taikoku' to iwareru yuen nano de shou.

"U Fleku" no dark beer ha, amakute, tottemo oishikatta (my favourite in Czech)!

2004.07.05 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

(久々に、日本語入力の出来る端末にめぐり合いました。うれしー!)


クラクフから夜行列車にのり、チェコのプラハにやってきました。

夜行列車なんて、ずいぶんロマンチック(?)な感じもしますが、
実態は、クシェットという3段ベッド、タコ部屋状態での移動だったので、
旅情もなにもあったものではありません。(その分、安いのですけれど)

もし、夜行列車での旅を検討されている方がいたら、
クシェットはおすすめしません、よ。


さて、噂にたがわず、プラハもたいへんに美しい街です。

クラクフの美しさが、
昔の風情をそのまま壊さずに受け継いだ美しさ、
何も手を加えたくない美しさ、だとするならば、
プラハの美しさは、
中世的な街並みと現代的な活力が絶妙なバランスで共存しているような、
生き生きとした、今を生きている街の美しさ、のような感じがします。

これはもう、個人的な趣味の問題かもしれませんが、
ぼくは今のところ、プラハのほうが好き。

また、多くの人がプラハに魅了される理由がわかるような気がしました。
(まだまだプラハを堪能していないので、偉そうなことはいえないのですが)


ドイツ、ポーランドと、肌寒い日が続いたのですが(日本の春先くらいの感じ)、
今日のプラハは、汗ばむくらいの陽気でした。

いよいよお待ちかね、チェコビールを堪能しに行ってまいります!!

2004.07.03 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

Krakow kara local train de 90 minutes hodo, Oswiecim ('Auschwits' in German) ha hitoke no nai, shizukana machi desu.

Eki kara toho 20 minutes hodo no tokoro ni, 'Auschwits Museum' (katsute no 'kyousei-shuuyou-sho') ga arimasu.

Museum ha, kyoumi no aru kata ha, zehi gojibun de goran ni natte kudasai.
Hukaku, iroiro na koto wo kangae sase rare masu. omotai.

Tsumi no nai hitobito ga tairyou ni 'syobun' sareta 'Gus Chamber' nimo, jissai ni hairu koto ga deki masu.
Gus Chamber to, sono sugu yoko ni aru, shitai wo yaku tame no syoukyaku-ro....

Why...?

2004.07.02 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

KRAKOW ha, Japan de iuto 'Kyoto' no youna machi da soudesu. ( Iwayuru 'koto' )

There are many many tourist, and also, many many HATO. ( not HATOSABURE )

Old Town no Machinami ha totemo utsukushii !!
Huto, hosoi roji nado miruto, sono ochitsuita tatazumai ni,
kokoro wo ubawarete shimai masu.

2004.07.01 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

Berlin kara train de Warszawa(Poland) ni kimashita.
Hatsu no riku-ro deno kokkyou goe datta node totemo shinsen deshita.
(ressha no naka de passport check)

Poland ni hairu to, nodoka na huukei ga hirogatte imashita.
('Poland' no gogen ha, 'heigen no tami' toiu imi da soudesu.)

Hito mo mata, odayaka na youdesu.
Ima taizai shite iru Private room no obaachan (80 years old) ha,
osekkai na gurai ni shinsetsu desu (w.

Warszawa is not so big city.
WW2 de hakai sareta machi wo, sonomama hukyuu shita to iu 'Old Town' ha,
totemo utsukushii! great!


Central Station mae no shop deno denka-seihin no nedan ...

SENTAKU-KI ... 1,459 zl
TV ... 4,599 zl
DVD Player ... 799 zl

... nihon to hotondo onaji? ( 1 zl = 30 yen gurai )

2004.06.29 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

ベルリンは、とても大きな都市です。人がたくさんいて、店もたくさんあって、たくさんの観光客がいます(自分もそのひとりなわけですが)。

ベルリンの第一印象は、日本で考えていたよりも「明るい街だな」、でした。
でもいまは(ベルリンに3日ほど滞在したわけですが)、ベルリンにはまだ「東」の痕跡が色濃く残っているな・・・、という風に感じています。

観光スポットに関しては、現在とても整備されていて、旧東ドイツ地域もとても洗練されています。しかし、もう少し東側に入っていくと、剥き出しの工事現場跡のような光景が広がっていたりします。

西側のターミナル駅「Zoo駅」と東のターミナル「Ost(東)駅」の間に、ベルリンの新しい中央駅が建設中でした。でも、今は2004年ですよ。「壁」の崩壊から何年たってるんだろう・・・。ちょっとびっくりでした。

---------

< ビール >

とてもおいしいです! まったく、日本のビールが飲めなくなってしまいます・・・。

口当たりはすっきり、でも、日本のビールと違って、喉を通り過ぎるとき、口にビールの「香り」が広がります(「におい」ではない!)。だから、とっても味わいがあります。

プリン体が怖くて、ビールが飲めるか!

2004.06.26 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

いま、ドイツのケルンです。
フランクフルトで2日間ほど過ごした後、こちらに来ました。

フランクフルトは、ドイツで一番の金融都市らしいのですが、
どうでしょう、旅人にはそれほど魅力的な街ではない感じがしました。

しかしながら、
滞在したYHで同室だったハンガリー人のおじさん(TIBOR氏)がとても親切な人で、
日・英・独・ハンガリー語が入り乱れた会話(および筆談)は、
私のいろいろな感情、好奇心とか「旅魂」みたいなものを刺激するのに十分なものでした。

ですから、旅の始まりとしては、上々といえそうです。


ケルンは、ガイドブックに載っていた大聖堂に惹かれ、
ちょっと見で立ち寄ったのですが、来てみて正解。圧倒されます、大聖堂。
隣の現代美術館も、充実の内容でした。

また、滞在する安宿では、女の人が1人同室(5人部屋)で、カルチャーショック。
欧米人はそういうの全然平気なのか?

今のところの問題は、まだドイツビールを堪能していないこと。。。

明日はベルリンの予定です。

おく

2004.06.23 | Posted by | 2004年 中欧〜アジア

そもそも、旅などにはまったく疎い自分が、
なぜ急に思い立ってひとり旅に出ようと思ったのか、
自分でもそのワケが本当のところわかっていないのですから、
到底、人に説明できるわけもありません。

しかし、目的は、あります。
横浜でよくいく飲み屋でバイトをしているネパール人の若者から、
旅のついでにネパールの両親へ手紙を届けてほしい、と頼まれたのです。

いつの間にかそれが、旅のついでなどではなく、
今回のひとり旅の唯一の目的となっていました。

ドイツから、ネパールへ。
私の「初めてのお使い」は、はたしてどうなるのでしょうか?

私にもわからないのですから、当然、みなさんにわかる由もないですよね。
まったく。


ナリタにて。

2018年02月09日
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28      
Monthly Archives
Category Archives