「+Diary:s」 blog no.9 - by okumiya.
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「2006年 南米」のアーカイブ
2006.07.18 | Posted by | 2006年 南米

旅の終着点、リマに到着しました。

リマはペルーの首都にして、ブラジル・サンパウロと並び南米のゲートウェイとなる都市。南米大陸の太平洋岸の中心です。旧市街には植民地時代に財を注いで造られた重厚な建築物が立ち並び、海岸沿いの新市街には海を臨む高層マンション・ホテルや落ち着いた雰囲気の繁華街が広がっています。人口約800万人をかかえる巨大都市です。



最後なのでリマではゆっくりしようとせっかく海に近い宿を取ったのだけど、滞在した3日間ずっとどんよりとした曇り空。冬の間(7〜8月)はガルーアという霧が空を覆ってしまうのだとのこと。ちょっと残念でした。

日曜日、新市街ミラフローレスではパレードが行われていました。学生さんたちのマーチングから民族舞踊のパフォーマンスまで、中央広場界隈はたいへんな賑わい。





それから、意外に良かったのが国立博物館。素人なので考古学的に価値があるかどうかはよくわからないのですが、時代や地域別に丁寧な展示がしてあって、量的にも適当で、とても見やすかったです。インディヘナ文化って図案がすごくポップなんだってことにあらためて気がつかされました。




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...と、ここリマで今回の旅を無事終えることとなりました。

駆け足でいろいろなところを回ったので、もうちょっとここに居たいなあなんて思う街もあったけれど、短い時間なりに各地を堪能することが出来ました。いろんなきれいなものを見て、変なものを食べて、世界って小さいなあと思うこともあれば、こんな不思議なところが地球にはあるんだと思うこともありました。いずれにしても、本当に世の中知らないことだらけで、すごく刺激になりました。楽しい旅でした。南米の人々のホスピタリティにも心から感謝!

2006.07.14 | Posted by | 2006年 南米

念願だったマチュピチュに、ついに行ってきました。

樹木の生い茂る険しい岩山の頂上付近に唐突に現れる石造りの都市。それはまさに「空中都市」の名にふさわしいものでした。ただただ、感動です。。。

燦々と照りつける太陽、濃い緑の山々、静寂につつまれた石の都市。悲劇の歴史をたどったインカ帝国ですが、ここマチュピチュには今もほんとうに平和な時間が流れています。

近年、遺跡の保護が問題となっているそうですが(われわれ環境客の責任でもあります)、ぜひいつまでも、美しく穏やかな姿をとどめていて欲しいです。

2006.07.13 | Posted by | 2006年 南米

15世紀末〜16世紀、北はコロンビアから南はチリに至る南米大陸の太平洋岸地域を支配し栄華を極めた大帝国インカ。クスコはかつてその大帝国の都だったところです。1533年スペイン人ピサロの手に落ちたクスコは、神殿や宮殿の金品を奪われた後に街を破壊されてしまいます。しかし有名なインカの石組みはあまりに精巧なので容易には崩すことが出来ず、征服者たちはその破壊をあきらめてインカの石組みの上にスペイン風の街並みを築き上げます。そのため、クスコには現在でもインカ風の石組みが残っており、インカと西洋とが融合した街並みを見ることができます。

プーノ〜クスコ間には列車が走っており、アンデスの高原地帯をぬけるその車窓は大変に美しいということですが、今回はインカ・エクスプレスというバスを利用しました。列車とほぼ同じルートを走るこのバス、途中のビューポイントやプレ・インカの遺跡に立ち寄ってくれるというのが売り。そういうマイナーな遺跡(失礼)を回る機会ってなかなかないし、ガイド氏の説明も丁寧で好感が持てました。また通りかかる街で人々の生活を間近にみることが出来るのもバスならではの魅力。インカ・エクスプレス、なかなかオススメです。



そんなこんなで、クスコに到着したのは夕方。一見ほかのペルーの街と変わらない様子なので、あれれ?と拍子抜け。しかし、バスターミナルからタクシーで中心街に入ると、石畳の路地にコロニアル風の建物がたいへん美しい洗練された街並みが広がっていました。アルマス広場界隈はほんとうにきれいだし、周囲にはインカ時代の名残りでしょう、車がやっと通るくらいの細い路地(あんまり細いせいかタクシーは大半が軽自動車)が迷路のようにはりめぐらされていて、わくわくする感じ。これがクスコかー、と深く納得&感動。




うわさの精巧なインカの石組みは、街の各所で見受けられます。びしっと直線的に組まれたものもあればジグザグとしたものもあり、タイプはさまざま(あるいはジグザクのは後年組まれたものなんでしょうか)。有名な12角の石や14角の石も確かにありました。しかし、こんなに高度な技術力を持った民族が少人数のスペイン人にあっさりと征服されてしまうんだから、歴史ってわからないものです。



夜にはフォルクローレのショーも見ました。サンポーニャを吹く息のスピードとか、伝統衣装の裾をくるくるとひるがえして踊るさまとか、生演奏ならではの楽しさを堪能。


クスコはその歴史的・文化的な魅力ゆえ、昔から超メジャーな観光スポットなので、そこいらの中途半端な観光地と違って徹底的に洗練されている感じです。ゴミなんてひとつも落ちてないし、ショップもきれいにディスプレイされているし、おいしいレストランもたくさんあります。もしかしたら逆にそういうのがつまらないと感じる人もいるかもしれませんが、それでも、インカ独特の石組みのある細い路地をめぐる楽しさはちょっと何にも代え難い! インカの歴史のことなどよくわからなくても(=私のこと)、魅力たっぷりの街です。

2006.07.11 | Posted by | 2006年 南米

ティティカカ湖を見るため、ペルー側の湖畔の街プーノを目指します。ティティカカ湖はアンデス山脈のほぼ中央、ボリビア〜ペルーの国境地帯に位置し、海抜3890メートル、広さは琵琶湖の約12倍。その昔インカの初代皇帝がこの湖に現れ「太陽の島」に降り立った、という伝説を持つ湖です。

まずはラ・パスからボリビア側の湖畔の街コパカバーナへ。途中湖をボートで渡ったりとか(バスも専用の渡し船で渡る)、入り組んだ山道を行く時の山々の表情の変化とか雲の近さとか、このバスルートはとても楽しかったです。


コパカバーナは、完全にリゾートな街でした。湖に向かう下り坂はとても日当りがよく、インディヘナに混じって長髪の白人ヒッピーが路上でアクセサリを売っていたりします。湖畔には魚を食べさせる食堂とカラフルなボートがずらっとならんでいて、ここは河口湖か?的な様相です。いままでのボリビアのイメージとはだいぶ違います。でも、本当に日差しが気持ちよく、のんびりするにはもってこいの土地だと思いました。ヒッピーが居ついちゃうのもわかる。



コパカバーナから再びバスに乗り、ボリビア〜ペルー国境を越え、ペルーに入ります。国境のゲートをくぐるとすぐペルービール「クスケーニャ」の看板があったりして、実にのんびりしたものでした。その後バスで4時間ほどでプーノに到着。

プーノの街自体にはこれといって見所があるわけじゃありません。でも、いくつかボリビアと違う点があって、ヘーって感じで新鮮でした。まず1つ目は、自転車タクシー(シクロ)がいること。前のハンドルの部分が乗客の座る荷車みたいになっていて2人くらい乗れます。こいつがけっこう地元民の足として活躍しているようです。2つ目、商売熱心なこと。バスターミナルでは「お兄さんホテルは?」的な客引きがわんさか寄ってきました。他の南米各国には客引き自体ほとんどいなかったので、へーって感じ。それから街を歩いてたら、路上のインディヘナのおばちゃんが片言の日本語で「オニーサン、セーター」なんて話しかけてきて、これには相当驚きました。あの無愛想なインディヘナおばちゃんが観光客に話しかけてきた!ボリビアでは絶対こんなことないです。良く言えば愛想がいい、悪く言えばツーリスティック。

翌日、ティティカカ湖のウロス島へ行くツアーに参加。プーノはティティカカ湖観光の拠点なのでいろんなツアーがあるのですが、このウロス島ツアーは定番中の定番のようです。

ウロス島というのは、実際には普通の島ではありません。トトラという葦を積み重ねて作られた浮き島郡のことを指します。スペイン人に追われたインディヘナがティティカカ湖に逃れ、浮き島を作って生活するようになったのがウロス島の始まりだと言われています。現在にもウロス島には伝統的な生活様式を守りながら1000人ほどのインディヘナが暮らしています。

緑の浮き草がびっしりとカーペットのように一面を覆っている湖畔からボートで30分ほどいくと、トトラ(葦)に囲まれるようにしてあるウロスの島々が見えてきます。ひとつの島はだいたいバスケットコートくらいの広さでしょうか。葦で出来た住居や小屋が何件か建っていて、そこで数家族が共同生活しています。毎日のように観光客が訪れるのでしょう、小屋の前には土産物の露店が出ています。到着すると住人たちが「カミサラキ」(こんにちはの意)と笑顔でお出迎え。



島は、ほんとうに葦で出来ています。葦の根の部分をいくつもひもでつないで土台を作り、その上に刈り取って乾燥させて叩いて平らにした葦を、適当な長さに切って敷き詰めているそうです。葦はけっこうな太さがあるので藁のようにチクチクすることはなく、適度にフカフカです。あんまり気持ちいいんで寝転がってしばし日光浴。

小さな島から別の大きな島にトトラ舟で移動。この舟も材料はすべて葦、、、と言いたいところですが、最近は島も舟も葦だけじゃなく内部にはプラスティックを使っているそうです。

到着した島は、学校などの公共施設や電話ボックスがあるコミュニティの中心的な島で、これらの建物は葦じゃなくプレハブ住居のような素材で出来ています。学校の様子を眺めていたら、先生らしき男性が手招きをして、ツアー客を校舎内へ案内してくれました。


薄暗い室内では、まだ幼稚園くらいの年齢の子供たちが7〜8名ほど一列に並んでいました。子供たちは、先生の合図で歌や踊りを次々に披露してくれます。まず歌ってくれたのは日本語で「チューリップ」(さいたー、さいたー)。それからフランスの歌、イタリアの歌、ケチュア族の伝統的な歌、などなど。


子供たちが身振り手振りをつけて歌っている様子は、もちろん大変かわいらしいです。ですが正直、芸をしこまれた動物たちのショーを見ているような気分でした。ツアー客たちの反応が悪いとみると、先生はすかさずより動きの派手な歌を子供たちに合図します。子供たち、飛んだり跳ねたり。そしてショーが終わると、子供の1人が帽子を取ってツアー客のもとを回ります。まあ、半分わかってはいたけれど、なんだか悲しい光景でした。能天気なツアー客の1人としてとても無責任な発言だけれど。

ことほど左様に、自分たちの生活様式をいわば見せ物にして観光収入を得て暮らしているウロスの人々。いつしか「生活様式の観光」が「観光のための生活様式」に逆転してしまっているということはないのでしょうか。内部にプラスティックを使ったハリボテのトトラ舟は、自らの民族の文化的伝統を守っているというより、観光客を呼ぶためのツールとして存在している、というのは言い過ぎでしょうか。子供たちは自分たちが歌い踊る意味をいつか知るのでしょうか。

わざわざお金と時間をはたいて地球の裏側まで来てる1人の観光客として、とても分不相応な発言だとは思うけれど。


2006.07.09 | Posted by | 2006年 南米

ウユニ発20時の深夜バスでボリビアの首都ラ・パスをめざす。カラマ〜ウユニ間とは異なり、乗客のほとんどはバックパッカー。ボリビア人は少数である。

ボリビアの高地を走る深夜バスはとても冷える。外は氷点下だが、たいていのバスには暖房設備がない。乗客はみな寒さに備え厚着をしたりインディヘナ風の毛布を抱えていたりする。自分も上は計五枚着込み、下は短パンの上にジーパンを履きさらにその上からレインウェアを履いて万全を期す。

バスは車体をきしませながら悪路を進む。まもなく窓ガラスはすべて凍りつき冷気が車内を支配する。真っ暗な車内。とっとと寝てしまおうと思うのだが、こんな日に限って目が冴えて眠れない。冷気が靴底から伝わってきて膝の下まで痺れる。空気が薄いせいか気管支のあたりが痛い。長い長い夜。やがてバスは悪路を抜ける。外の暗闇が青白く溶けてゆく。朝焼けの手前に山陰が黒く浮かび上がる。茶色い街並みが見えてくる。添乗員が乗車券の回収にくる。7時、ラ・パス到着。

9時過ぎ、ホテルにチェックインする。中庭のあるきれいなホテル。しかしそんな雰囲気を楽しむ余裕もなくバックパックを引きずるようにして部屋に転がり込み、暖房をつけてベッドに横になる。昼過ぎに目が覚めるが、体調がすぐれない。頭痛と肺の痛みと下痢と全身のだるさ。高山病だろうか。残りの旅の予定のことなど考えて気弱になる(マチュピチュ行けるかな、、、)。トイレに行くためベッドを出るとひどい悪寒がする。熱があるようだ。日本から持参した風邪薬と熱冷ましを飲む。すると、これが効果てきめん。自分でもわかるくらいにぐいぐい熱が下がっていき、全身のだるさも頭痛も肺の痛みも引いてしまった。高山病ではなく、単に疲れから発熱していたようだ。思えばここ4日で3回も深夜バスでの移動だった。体は正直だなと思う。

テレビでドイツ対ポルトガルの試合を見ながらしばらく静養し、夕方シャワーを浴びる。実に5日ぶりの風呂だ。念入りに3回も髪を洗う。さっぱりついでに爪も切る。リフレッシュ。。。たまった洗濯物をランドリーサービスに出しにいくが、明日は日曜のため休業、仕上がりは月曜の夜だと言う。仕方なく部屋に戻り洗面台で洗濯する。気がつくともう8時。今日は一日リフレッシュ・デーと決め、外出はあきらめ、チョコレートクッキーを数枚食べてすぐに寝てしまった。

翌朝。体調はまあまあ良い。朝食のビュッフェでパンケーキとバナナとパイナップルをたらふく食う。

ラ・パスは、標高3,650mに位置し世界で最も高い場所にある首都である。周囲を山々に囲まれた盆地であり、おおざっぱに言うと、盆地の底にあたる部分は高層ビル郡などからなる新市街、その周りはコロニアル建築が立ち並ぶ旧市街、一番外側の斜面にあたる部分は日干しレンガの家々が広がるいわゆる貧民街である。新市街の外れにあるライカコタの丘から眺めると、なるほど、ラ・パスのすり鉢状の構造が一目瞭然でわかる。山の斜面はびっしり赤茶色の小さな四角形が埋め尽くしている。


旧市街を中心に歩く。坂道が多く、路地も入り組んでいて、他の大きな街のように整然とした感じがない。また路地の両脇は、民芸品から生活雑貨まで様々な露店が軒を連ねている。インディヘナのおばちゃんたちが路上いっぱいに店を開いている市のような所もあり、生活感にあふれている。歩いていてとても面白い街。飽きない。




旧市街でも山の手の方は、国会議事堂や銀行本店や博物館などが立ち並ぶ地区。とくにハエン通りという細い路地には植民地時代の建物が当時の状態で残っておりたいへん趣があった(それらの建物は現在博物館として利用されている)。国会議事堂前のムリリョ広場でまたしても軍楽隊のブラスバンドを目撃(先週チリのサンチャゴでも見た)。演奏レベル的には文句なくチリに軍配。それにしても日曜の軍楽隊の演奏というのは何らかの政治的・社会的意図があるんだろうか、それともたんに南米諸国のトレンドなんだろうか。いずれにせよ、すっきりと晴れた日曜の午前中に鳩の飛び交う広場で人々がブラスバンドを聴くというのは、とても平和な風景である。




ボリビアは、南米の中でも比較的貧しい国である。チリ同様豊富な鉱物資源を持つにもかかわらず、各資源の利権を巡って国内対立が続き(背後には外国資本)、クーデターでめまぐるしく政府が変わるなど、政治的・経済的に大変不安定な状態が続いた。90年代にひとまず落ち着くが、2000年以降、政府の天然ガス輸出政策に反対する暴動により大統領が辞任に追い込まれたり、大規模ストが各地で頻発したり、まだまだ国情は完全に安定しているとは言いがたい(現在は一時安定)。しかし、街に出て人々の様子を見るかぎり、政情不安によって人々の心まで荒んでしまっているという風には僕には感じられなかった。インディヘナのおばちゃんたちはたくましく露店を営んでいるし(しかし愛想というものは欠片もない)、また、とある店で買い物をして1ボリビアーノ多くお金を払ってしまったとき、店員はわざわざ追いかけてきてその1ボリビアーノを僕に返してくれた。そういう地道でまっとうな人々がたくさん暮らしている国である。


2006.07.07 | Posted by | 2006年 南米

カラマから週2本出ているというボリビア行きのバスにタイミングよく乗ることが出来ました。目的地はウユニ。世界一大きな塩の湖があるという土地です。

ウユニ行きのバス乗り場は、深夜にも関わらずインディヘナ(先住民)たちの活気で蒸していました。今回の旅を通じてこんなにインディヘナが集まっているのを見たことがなかったので、まずそれに驚き、それからそれぞれが抱えている荷物の量に圧倒されました。みなボリビアからチリに買い出しにきて帰るといった雰囲気で、ズタ袋に品物(多くは日用品ぽいが、自転車や中古の電子キーボードなどもあった)を満載にしてバスの到着を待っています。旅行者ではなく生活者たち。しかし、こんなにたくさんの荷物が積めるんだろうか。。。

到着したバスは、チリでおなじみのきれいなサロンバスではなく、古い薄汚れた普通のバスです(さよなら、サロン・カマ、、、)。到着と同時にみなバスの車体の横にある荷物入れに殺到。自分も人並みをかきわけ強引にバックパックを詰め込みます。こんなところで遠慮したら負け。

一方、バスの車内はこれまた実にひどく、見事にひどく汚れています。むっとする埃っぽい空気、破れたカーテン、手垢で黒くなったシート、噛み終わったガムみたいのがへばりついてる窓枠。あんまりの汚さにうんざりしつつ、土ぼこりと砂利を手で払いのけてから座席に座りました(ああ、愛しのサロン・カマ、、、)。

ともかく、バスは人と荷物を満載にして真っ暗な砂漠の道を走ります。この道がまたひどくって、砂利道を自転車で全力疾走してるような感じ。揺れるなんてもんじゃない。しかし、たったひとつ幸いなことに、バスは暖房が効いていて(砂漠の夜はとても寒い)、昼間の疲れもあり早々に寝入ることが出来ました。

気がつくと、バスは暗闇の中で停車。時計を見ると4時過ぎ。どうやらチリ〜ボリビアの国境まで到着したようです。夜間は国境のゲートが閉じているため、ここで朝まで待機。日が昇り外に出ると、周囲は素晴らしい景色でした。空気が澄んでいて、山の輪郭がくっきり見え、横には国境越えの列車がバスと並んで停車していました。旅してるな〜って感じです。


結局9時過ぎまでここで足止めをくい、チリを出国。バスに乗り込んでちょっといくと、路肩にインディヘナの集団と膨大な量の荷物が見えます。ここで、バスの乗り換え。僕らの乗ってきたバスはボリビアから来た人々を乗せて引き返し、僕らはボリビアから来たバスに乗り込みます。しかし、ひとことで「乗り換える」といってもあの荷物の量。人々がやいのやいのと騒いでまたひと騒動でした。やれやれ。乗り換えたバスでこんどはボリビアの入国審査。これでやっとボリビア入国です。

相変わらずのでこぼこ道をウユニに向けて走行。ボリビアに入ると、わずかではあるけれど大地に緑が戻ってきます。だんだん緑は濃くなり、時おりリャマの群れが見られるようにもなります。途中インディヘナの村に立ち寄ったりしながら、夕方ウユニに到着しました。しかし、なかなかハードなバスでした。


ウユニは標高3660mにあるインディヘナの街。といっても、ボリビアは人口の90%以上をインディヘナとメスティソ(インディヘナとスペイン人の混血)が占める国なので、インディヘナの街という言い方は適当じゃないかもしれません。街には鉄道の駅があり、アルゼンチンやチリとの交易の拠点となっています。でも旅行者にとっては、ウユニはなんといってもウユニ塩湖へのツアーの起点となる街です。



翌日、塩湖へのツアーに参加。赤いトヨタ・ランドクルーザーに乗って、気のいいボリビア人おじさんガイドの運転で、ウユニ塩湖のなかほどにある「魚の島」を目指します。ウユニの街を出ると、向こうの地平線に白く輝くラインが見え、それがだんだん太く大きく近づいてきます。塩湖!雪原のような一面真っ白の世界。にわかにはそれが塩だと理解できません。感動的な光景です。


強烈な太陽の照り返しの中、岩塩の採掘場、塩のホテル(塩湖の上にある岩塩で建てられたホテル)などを見学。





目的地の「魚の島」に到着。ここからの眺めは、ああ、ほんとうに素晴らしかったです!言葉じゃあれなんで、あとは写真に任せます。







2006.07.05 | Posted by | 2006年 南米

太平洋とアルプス山脈に挟まれた南北に細長い国土を持つチリ。中部(サンティアゴ、ラ・セレナなど)の温暖な黒土地帯に対し、北部にはアタカマ砂漠が広がり、大地は固く乾いています。カラマはそんな北部砂漠地帯にあるオアシス都市です。

一方、チリ北部の砂漠地帯はまた鉱物資源の豊かな土地でもあります。1911年カラマの北16キロのチュキカマタで世界最大級の銅の鉱脈が発見。以来このチュキカマタ銅山はチリの経済を支える原動力となっています(他の南米諸国が80年代〜90年代に急激なインフレに苦しんだのに対しチリ経済は大丈夫だった)。かのチェ・ゲバラも「モーターサイクル・ダイアリーズ」の中でふれているチュキカマタ銅山。見ないわけにはいきません。

温暖なラ・セレナから深夜バスに乗り、翌日の午前中にカラマ到着。車窓はほんとうにサボテンの1本も生えていない乾いた不毛の大地でした。砂漠というと砂のイメージがあるけれど、固く乾いた岩っぽい大地が広がっています。


カラマから乗り合いタクシーでチュキカマタ銅山へ。銅山では毎日ツアーを行っていて、視察に来た技術者や観光客に採掘の様子を見せてくれます。

銅の採掘場ということなので工場か何かようなものを想像していたのですが、チュキカマタ銅山はむしろひとつの街でした。カフェがあり銀行があり幼稚園があり小さな映画館があり、採掘場で働く人々が住むのであろう集合住宅もありました。その規模の大きさにまず驚きました。

ツアー事務所にて銅山の簡単な説明を受けた後、バスで採掘場へ移動。幅4キロ、深さが800メートルにも及ぶという巨大なすり鉢状の露天掘りの採掘場は、舞い上がる土煙で全体が見渡せないほど。さすがに世界最大級。そしてすり鉢の底からは、こちらもムーチャス・グランデな、1回に何百トンを運ぶというバカデカいトラックが、岩石を満載にして次々と這い上ってきます。こうした採掘が24時間365日体制で行われているそうです。ガイド曰く「雨が降ったらお休みだけどここは雨が降らないのよ(笑)」。採掘後の岩石はそのままここで純度99%以上の銅に精製され、各地へ出荷されていくそうです。



見るかぎり非常に近代的で効率的なチュキカマタも、過去には低賃金で過酷な労働を強いられた先住民や出稼ぎ労働者の犠牲のもとに生産がなされてきたという歴史があるそうです。現在経営はコデルコという国内資本の会社によってなされており(元々はアメリカ資本)、労働者待遇も賃金面・福祉面とも改善されているとのことです。しかし、これらはすべてコデルコ側からの説明であり(ツアー自体そういう宣伝が目的のように感じた)、実際のところは僕にはよくわかりません。いずれにせよ、チリは他国に比べインフレ率や失業率が低く教育水準も高い国です。確かに旅をしてても豊かで安全な国だなあと感じます。そうしたチリの経済的安定を支えているのが、砂漠のど真ん中にあるこの巨大な鉱物開発施設なのでした。

2006.07.04 | Posted by | 2006年 南米

サンティアゴからバスで北へ470キロ、コロニアル都市ラ・セレナに向かいました。「セレナ」とはスペイン語で「静かで落ち着いた」という意味。ガイドブックによると、「1年を通じて気候が温暖で、平均気温は7〜22度前後、空気は澄んでいる。夏には海水浴客で賑わい、カキ・ムール貝・ウニ・カニなど海の幸が売り物のレストランも多い」街だそうです。行ってみたくなるでしょ?

でも、ラ・セレナに行く前に、ちょっとバスの話。

* * * * * *

南米諸国は、ブラジル・アルゼンチン・チリも含め鉄道網があまり発達しておらず、地上での長距離移動は圧倒的にバスが主流です(道路網はよく整備されている)。特にチリの長距離バスは、快適さと料金の安さで有名だそうです。飛行機のファーストクラスみたいに座席がほぼ水平にリクライニングする「サロン・カマ」、それよりちょっと落ちるけど充分ゆったり快適な「セミ・カマ」、日本のリムジンバスくらいの乗り心地の「エヘクティーボ」、日本の観光バスくらいの「クラシコ」、などのクラスがあり、セミ・カマ以上には枕や毛布や食事もつきます。

せっかくチリでバスに乗るので、ちょっと贅沢して、サンティアゴ〜ラ・セレナ間はファーストクラスの「サロン・カマ」をチョイス。6時間で料金は13,300ペソ。3,000〜4,000円ほどでしょうか。

新しくて立派な2階建てバス。座席は左側に2列、右側に1列。たっぷりゆったりとしたシート。足もと広々。足置きをパタンと倒してシートをぐいっとリクライニングすると、ほんと、全然ラクチンです。「水曜どうでしょう」の大泉さんにぜひ教えてあげたいくらい。もっとも、移動20時間を超える路線もザラなチリのバス事情。このくらいゆったりしてないと一般的・日常的な移動手段としてはいささか辛いのかもしれません。また、バスが快適な代わりなのか、途中で停車して食事やトイレのために休憩、ということも南米全般ではほとんどありません。このあたり、同じバス大国でもトルコやイランとはだいぶ事情が異なります。

さて、僕の乗ったゆったりサロン・カマは、定刻の10時を5分ほど遅れてサンティアゴを出発。冬なのに緑の灌木の茂った山間の道を快調にとばしていきます。乾燥した大地から、ムーミンに出てくるニョロニョロみたいな形をしたサボテンが時おり顔をのぞかせます。これぞラテン・アメリカ!

しばらくすると、パンの車内販売。赤ん坊を入れるカゴみたいな大きなバスケットにパンを満載にして、白い服を着た初老の男性が客席を歩いて回ります。このおじいさん、いろんなバスに乗り込んではパンを売って歩く、いわば流しのパン売りみたいな人で、ひとしきり車内をうろついた後、だまって我々のバスを降りていきました。いったい1日に何台のバスに乗り降りするんだろう?

またしばらくすると、今度はホットドリンクのサービス。添乗員のお兄さんが茶道具をもって客席を回ります。このドリンクサービスがちょっと変わってて、「カフェ」というと、とりあえず空の紙コップを渡されます。そして、インスタントコーヒーの粉の入った器を指差されます。どうやらコーヒーの粉をセルフで好きな量だけ入れるらしい。で、粉を入れるとお兄さんがポットからお湯を注いでくれます。要領がわからず言葉も通じず、コーヒーを飲むだけでずいぶん苦労しました(後でわかったのですが、このコーヒーの粉のセルフサービス、チリのカフェでは一般的にそうするものらしい)。で、飲み終わった頃またお兄さんがやってきて、空のコップを回収してくれます。この時に、チップを要求されました。乗り物のドリンクサービスでチップをくれと言われたのは、いろんな国でチリがはじめて。なんだかいろんなローカルルールがあって、頭がこんがらがりそうです。

昼過ぎには食事が配られます(このときはチップ不要)。肉入りパスタとパンとチョコムース。メニューといい量といい味気なさといい、ちょうど飛行機の機内食のような感じ。そして食後には、ホットドリンクのサービス(要チップ)。

そんなこんなで食事も終え、うとうととしていると、ふいに我々のサロン・カマ号、砂利道に乗り上げたようで、小さく小刻みにガタガタと揺れだしました。しかし、窓の外を見てもとくに道路が悪くなった様子はありません。すぐにバスは速度を緩め、路肩に停車しました。乗客もざわざわ。まさかと思い外に出ると、案の定、ものの見事に右前輪がバースト!していました。タイヤの残骸のゴムがびろんびろんになって、もうひどい有様。バス本体が立派なだけに、バーストした前輪が本当に救いようがなく惨めに見えます。物事には「つり合い」というものがあるんだなあと思いました。これがパキスタンのおんぼろギンギラバスだったら、ふーんさもありなん、とすんなり納得することが出来るでしょうに。。。

バスのタイヤ交換というのは、初めて見ましたけど、結構大変な作業です。作業内容は乗用車と大差なく、ホイールのネジをちょっと緩め、車体の下にジャッキを差し込んで、車体を持ち上げて、だめになったタイヤをはずし、スペアタイヤをはめて、車体をおろして、ネジをぎゅっと締めなおして、はい完了、となります。だけど今回のケースは、タイヤが完全にバーストしちゃってるんで、車体が傾いててうまくジャッキが入らずにまず一苦労。その後ジャッキで車体を持ち上げるわけですが、あんな小さなジャッキが巨大な2階建てバスをジワリジワリと持ち上げていく様は、まるでゴリアテに1人立ち向かうダビデのようで(ま、ちと大げさですけど)、なかなか感動的な光景でした。バスの運転手2名、添乗員、それに乗客の1人(多分この人は自動車整備士か何かだと思う)が地べたに這いつくばって作業して、1時間ほどで無事タイヤ交換完了。その間、男たちは野次馬のように作業を眺めたり、それに飽きるとタバコをふかしたり。女たちは作業には全く興味がないようで、向こうの方で談笑したり、電話をかけたり、タバコをふかしたり。


その後はまた快調にバスは走り、無事17時前にラ・セレナに到着。僕はここで下車。バスはこのままチリ北方の街イキケまで行きます。サンティアゴからイキケまでは24時間かかるそうです。道中、無事でありますように。

* * * * * *

ラ・セレナ、「静かで落ち着いた」という名前から想像していたよりもずっと大きな街でした。

中心街は1時間も歩けば見て回れるくらいの広さですが、その周囲に見渡す限り住宅街が広がっています。温暖で過ごしやすい気候に吸い寄せられるように人々が集い、結果だんだん宅地が広がっていったんじゃないかなと思います。白い壁に赤茶色の瓦屋根を持つこざっぱりとした新しい感じの住宅が多いです。街全体に背の高い建物はほとんどなく、フラットで威圧感のない街並み。さっぱりとしてとても清潔な印象です。

アルマス広場を中心とする繁華街には、僕が夕方到着したせいかもしれませんが、制服姿の学生さんがたくさん目につきました。学校帰りにちょっと街で遊んでいこうって感じでしょうか。そういうのは日本もチリも変わりませんね。でも、若い人がたくさんいると、街が生き生きとした感じに見えるから不思議です。

街から西へ、ヤシの木の並木道を30分くらい歩くとセレナの海岸に出ます。向こうの端が見えないくらい長いビーチで、海岸沿いの通りには海水浴客向けのホテルやカフェが建ち並んでいます。しかし、冬のビーチって寂しいもので、砂浜には人影はなく、カモメが群れているだけ。通りの店もほとんどシャッターを降ろしています。またこの日は天候が悪く、海も砂浜も寒々しい灰色でした。今度はぜひ夏に来たい。

2006.07.02 | Posted by | 2006年 南米

メンドーサからチリの首都サンティアゴへは、陸路だとアンデス山脈を越えてゆくことなります。このルート、南米最高峰のアコンカグア(標高6,962m)の横を抜けるそうなので、とても楽しみにしてました。

メンドーサを午前中に出発。刈り込まれたブドウ棚の広がる平地を西へと向かいます。前方にはごつごつした茶色い岩山とその向こうに白くそびえるアンデスの山々。やがて道は山間へと突入。思ったよりもずっとなだらかなですが、車窓から望むごつごつした岩肌は迫力あります。あたりはだんだん残雪を帯びるようになり、白いアンデスが目前に迫ってきます。雪の合間からちらりとのぞく山肌は黒々としていて、いかにも険しいなあっていう感じです。そんな山々が幾重にも連なってて、結局どれが最高峰のアコンカグアかわからなかったんですが、、、まあともかく、絶景でした。

バスは2時間ほどなだらかな山道をのぼり、最後に国境の長いトンネルを抜け、チリ側に入ります。ここで出入国審査。外はさすがに寒い(標高どのくらいなんだろう?)。結構厳重な荷物検査などあって、無事チリに入国。さらばアルゼンチン!

「Welcome to Chile!」の看板をくぐって進むとすぐ、ホテルやスキー場の並ぶ一角があります。国境沿いでスキーなんて粋だなあ、なんて思っていると、バスはさっそく山下りに入ります。アルゼンチン側とは対照的に、日光いろは坂みたいな感じのヘアピン続き。ぐいぐいと下っていきます。急激な気圧の変化でペットボトルは凹み、ひどく頭が痛くなりました。下り終えると、サンティアゴへ向けての平坦な道のり。メンドーサよりも緑が濃い印象です。日差しが強く、バスの中は暑いくらいでした。

サンティアゴは、サンパウロやブエノス・アイレス同様、大都市です。車の量が多くて、市街上空はいつもスモッグでけむっているという話ですが、僕が滞在したのは週末だったせいか、それほどの混雑は感じませんでした。

大きく旧市街(街の西側)と新市街(東側)とがあり、街の中心は新市街に移行しているということですが、旅行者にとって興味深い見どころが集中しているのは旧市街。歴史的な建物や博物館などはこちらにあります。

旧市街の中心にあるアルマス広場周辺は、土曜の午後ということもあってか、人々でごった返しています。パントマイムやら楽器演奏(チンドン屋みたいなの)やらの大道芸を通りのあちこちでやっていて、大変な賑わい様。ドラえもんだっています。CD屋からはペレスプラード楽団みたいな古いラテン音楽が流れています。気になって店内をのぞいたら、可愛くて気のいい若い女の店員さんに次々にCDを進められ、あれよあれよという間にボックスCD2組計25980ペソ(6〜7000円くらい、結構高い)、買わされてしまいました。チリの人々の人なつっこさ、陽気な感じは、アルゼンチンよりもブラジルに近いような気がします。


一方、サンタ・ルシアの丘の東側は(僕はこのあたりに宿をとった)、近代アート美術館や芸術書物専門の書店や青山あたりにありそうな今風のカフェが並ぶ落ち着いた雰囲気の一角で、大学生・美大生風の若者たちでカフェは始終いっぱいでした。これらのカフェではアルコールを一切出してくれない。大変困りました。

それからサンティアゴでは、念願だった魚貝類をついに食いました! アルゼンチンは肉攻めでしんどかった。。。中央市場(魚貝類専門の市場)内の食堂で、ご当地料理ソパ・デ・マリスコスを注文。いろんな種類の貝が入ったあっさり塩味スープ。鉄鍋でジュウジュウ湯気の立ってるスープにレモンを大量にしぼって食べるのがチリ流。見たこともない貝(グロテスク)とか入っててちょっとビビりましたが、腹を壊したらそれまでよと思って食べてみると、これがめちゃめちゃ旨い!最後の一滴まですするようにして完食。別のところで食べたサーモンのサラダもとても美味しかったです。やっぱ魚ですねー。

2006.06.30 | Posted by | 2006年 南米

2006年6月30日正午、ブエノス・アイレスの国内線のターミナル「ホルヘー・ニューベリー空港」は、ぱたりとその機能を停止した。

いったい何が起こったのか? ――― そう、サッカーである。

この日にワールドカップ準々決勝の大一番「アルゼンチン対ドイツ」戦が行われることは、もちろん事前に知っていた。アルゼンチンの試合、見たいなあ、と思っていた。しかし、アルゼンチン航空のメンドーサ行きの出発時刻は12時45分。これを逃すと夕方まで便はないそうである。仕方ない。僕はサッカーをあきらめメンドーサ行きを選んだ。

当日。早めに空港入りしチェックインを済ませ、搭乗ロビー内のテレビモニターの前に陣取る(せめてちょっとくらい試合を見たいじゃないですか)。試合開始のだいぶ前にも関わらず、数カ所あるテレビモニターの前には早くも人だかり。向こうのレストランでは、テレビを中心に扇型に椅子が並べられている。みんな、心なしか浮き足立っている。

アルゼンチン・ドイツ両国代表がピッチに姿を現す。空港内に拍手と歓声と響き渡る。12時00分、キックオフ。攻撃陣にタレントをそろえ、これまで見事に勝ち上がってきたアルゼンチン。この試合も序盤から優勢にゲームを進める。中盤でのすばやいパスまわし。実に美しく、見ていて楽しいサッカーである。「ヴァモ!」「ムイビエン!」といった歓声があがる。唐突に客の一人がテレビモニターに近づく。そしてテレビの音量を上げる(搭乗ロビー内のテレビはみな音声をミュートされていたのである)。その勇気ある行動に対し、また拍手が沸き起こる。

ふと、僕は先ほどのレストランの方に目をやる。そして自分の目を疑う。白いコック服の男たちが10名ほど、テレビ前の人だかりの最前列で腕組みをしながら試合観戦をしている。明らかにレストランの厨房の男たちである。明らかに、自信を持っての職場放棄である。気になってあたりを見回してみる。すると、あちこちで同様の職場放棄が起こっている。カフェのウェイトレスも、警備員も、航空会社の職員も。まあ客の大半がサッカーに釘付けだから、働いていようがいまいが大差ないんだろうし、そりゃ仕事なんかより母国の大事な一戦を見たいだろうと思う(僕だって同じ立場だったらサッカー見たい)。でも、日本人の倫理観からすると、あまりにもあっけらかんとした職場放棄である。

ところで、僕は12時45分発の飛行機に乗らなくてはならない。サッカー見てて飛行機を乗り過ごしたんではいささか情けない話である。12時15分、指定された搭乗ゲート「12b」のほうをちらりと見やる。まだ動きはない。12時20分。動きなし。12時25分。ちょっと心配になって「12b」まで行き、カウンターのお姉さんに訊ねる。「メンドーサ行きは?」「遅れています(delayed)。10分くらいの遅れだと思います」。発着リストに「delayed」の表示はなかったが、どうやら飛行機が遅れているようである。ラッキー、と内心ほほえみながら、サッカー観戦に戻る。

アルゼンチン優勢のまま前半終了。皆にこやかである。あちこちで談笑がもれる。トイレ休憩に行くものもいる。一方、僕の飛行機は一向に飛ぶ気配がない。発着リストにも「delayed」の文字が灯る。「···まさか、パイロットがサッカー見てる、なんてことはないよな(笑)···」。。。

後半開始。早々、セットプレーからディフェンダーのアジャラが見事なヘディングゴール!! アルゼンチン先制。空港内は大歓声。手にしたシャツを振り回すものまでいる。僕も思わずガッツポーズ。「12b」のお姉さんもほかの空港職員と喜びを分かち合う(「12b」嬢も後半より観戦。そう、職場放棄である)。その後、ドイツの反撃。審判のホームびいきの笛が目につく。防戦一方となるアルゼンチン。逃げ切れるかと思われた後半残り10分ほど、ドイツ・クローゼのヘディングゴール。ついに同点に追いつかれる。空港内、言葉なし。試合はそのまま延長戦に突入する。

僕、ここで一応発着リストと「12b」カウンターを確認。案の定「delayed」のまま。よし。試合終了まで飛行機は飛ばないだろうと確信する。

リケルメもメッシもピッチ上にいないアルゼンチン。テベスが奮闘するものの結局120分で決着つかず。14時41分、PK戦の末、美しきアルゼンチン、退屈なドイツに敗れる。深いため息。。。そして、ホルヘー・ニューベリー空港はその機能を回復する。アルゼンチン航空AR1416メンドーサ行きは、定刻より約2時間30分遅れの15時10分、ブエノス・アイレスをあとにしたのだった。

* * * * *

そんなわけで、予定より大幅に遅れて夕方5時過ぎにメンドーサに到着しました。

メンドーサは、ワインの産地として有名な土地だそうです(アルゼンチン産ワインの実に70%がメンドーサ産)。上空から見ると、周囲は赤茶けた大地と刈り取られたあとのブドウ畑ばかり。そして西側には、雪をいただいたアンデス山脈がそびえています。

空港からタクシーで10分ほどで、メンドーサの中心街に出ます。さほど大きな街ではありませんが、さびれているという印象はありません。こぎれいで、感じのいい街並みです。

街の中央には200メートル四方ほどの大きさの公園(独立広場)があって、噴水のまわりのベンチで抱き合うカップルや、ブランコに乗る幼ない息子をケータイで写真に撮るお父さんがいたりします。実に平和を絵に描いたような光景です。

特産のワインをぜひ飲もうと宿近くのレストランへ。ビールはともかくワインのことはよくわからないので、店の人に適当に幾つか選んでもらい、その中から2番目に高い赤ワインをチョイス。それでもミニボトルで10ペソ(約400円)。安いですよねー。ブドウの香りがとても心地よくて、渋みの少ないすっきりとしたワインでした。サラミや生ハムをつまみに、おいしくいただきました。

メンドーサ。とくに見どころがあるわけじゃありませんが、一度訪れたら誰もが好きになってしまうような、心安らぐ街でした。

2006.06.29 | Posted by | 2006年 南米

アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスは、とても美しい街です。個人的な印象としては、感動的にビューティフルな街です!

南米諸国はそもそも、16世紀以降ヨーロッパ移民たちが切り開き(先住民インディヘナにとっては「侵略」に他ならない訳ですが)、19世紀初頭、南米生まれのスペイン人「クリオージョ」たちが母国ヨーロッパの植民地支配に抵抗、独立を勝ち取り建国された国々がほとんど。その中でもアルゼンチンは、人口の97%がスペイン系・イタリア系の白人が占めるという、とても白人率の高い国です。そういった国状を反映してか、ブエノス・アイレスは実にヨーロッパ的な街並みを有しています。「南米のパリ」といわれるのも納得。


ブエノス・アイレスは広く、地区ごとに違った顔を持っています。僕が泊まったのはモンセラート地区。5月広場からまっすぐ西にのびる5月大通り沿いにあるレトロなホテルに宿泊しました。「5月」の名はアルゼンチン独立革命「5月革命」にちなんだもので、5月広場は1810年5月25日市民たちが集い独立の喜びに浸ったといわれる場所。いわば街の歴史的・政治的シンボルのようなところです。周りには大統領府や大聖堂が建ち並び、また5月広場の反対、5月大通りの西の端には国会議事堂があります。


このモンセラート地区を拠点に歩き回ったせいかもしれませんが、ブエノス・アイレスの持つ大人びた雰囲気、100年前のヨーロッパはさもありなんというようなシックでレトロな香りに、僕はすっかりやられてしまいました。例えば地下鉄。5月大通りの下を走るA線の車両。たぶん開通当時(1913年)からの車両が現役で動いてるんじゃないでしょうか。裸電球。木製ベンチ。扉は閉まるときフスマみたいに「ピシャ」って音がします。例えばエレベータ。僕の宿のエレベータは扉がジャバラです。ジャバラ扉を手で閉めて階のボタンを押すと、押した瞬間にガコンという振動ともに箱が動きだし、目的階でまたガコンという揺れとともに停止します。はっきりいって、日本で話題の某社のエレベータなんて目じゃないです。例えばタクシー。プジョー504ですよ!(505と似たような面構えでした、朝倉さん)。こんなふうに、街の各所にレトロなものが現在活用形で残っていて、それがまた実に自然でたまらなく魅力的なのです。


それから、なんといってもタンゴ! カフェでタンゴ・ショーを見たのですが、音楽にもその土地で聴かなきゃわからないものってあるんだなあとこの時ほど強く感じたことはありませんでした。タンゴって(といってもピアソラくらいしかまともに聴いたことないけど)、カッコいいけれどなんとなく小難しいじゃないですか。僕は正直ちょっと敬遠気味でした。だけど、そのタンゴ・ショーは、本当に楽しかった! 心からタンゴを堪能した気がします。演奏が抜群にうまいわけじゃないし(ピアノの調律はくるってたし、バイオリンのピッチも怪しい)、タンゴダンサーのステップが驚くほど巧みだったわけでもありません。だけど、あの雰囲気(、、、としか表現できないんですが)、実にブエノス・アイレスの生活に合っているというか、彼らの生活から生まれた音楽なんだなあというのが感じられました。ヨーロッパに憧れ、ヨーロッパ風の街並を作り上げた人々が、ちょっとお洒落してワイングラスを傾けながらリラックスして聴く感じ。リオ・イパネマ海岸には文句なくボサノバだし(白い砂浜、午後の日差し、気怠さにも似たこの贅沢なひととき・・・)、ブエノス・アイレスにはやっぱり、タンゴなんですね。そういうことがすごく腑に落ちた感じでした。楽しかった。


ほかにも、歩行者天国になってる賑やかな繁華街あり(フロリダ通りという。ひどいネーミングだよね)、港町ボカ地区あり(タンゴ発祥地だが、いまは完璧に観光地化されている。ちょっとがっかりした)、いろいろな顔を持つブエノス・アイレスではありますが、僕にとっては、レトロでシックで大人な街、そしてやっぱりタンゴの似合う街。それがブエノス・アイレスでした。

2006.06.26 | Posted by | 2006年 南米

ブラジルーアルゼンチンの国境を流れるイグアス川がぐにゃりとヘアピンのように蛇行するあたりに、世界最大級の滝イグアスがあります。

ブラジル側(川の北側)の拠点となる町がフォス・ド・イグアス。サンパウロからバスで16時間の距離にあります。朝、フォスでバスを降りるとめちゃ寒い! リオ、サンパウロとTシャツ1枚で過ごしてましたが、あわててカバンからセーターを引っ張りだしました。

お目当てのイグアスの滝は、フォスの町からさらにバスで30分ほどの国立公園内にあります。滝の少し手前から川沿いに遊歩道があり、ここを歩いてビューポイントまで行くことが出来ます。遠くに「ゴーー」と滝壺がうなる音が聞こえ期待が高まります。前日雨だったせいか、途中樹木の枝が歩道を完全に遮っていたりしますが、そんなのをガシガシ踏み越えてビューポイントに到着。

大小300もの滝が流れ落ちるというイグアス。中でも最大の滝は「悪魔ののどぶえ」と呼ばれ、流れ落ちる水しぶきであたりが白くけむってしまうぐらいものすごい水量です。とにかくでかい。爆流、轟音、ダイナミック!! 日本でイメージする滝とはスケールが違います(茨城?の袋田の滝を見たときもずいぶん立派で感動したけれど)。南米大陸のでかさを痛感しました。ただ、あいにくの空模様で、すっきり青空に白い水しぶきという光景は見ることが出来ず。晴れていれば、さらに滝壺に虹がかかり自然のおりなす色彩のシンフォニーも楽しむことができるそうです。残念。

滝を堪能した後、アルゼンチン側(川の南側)の町プエルト・イグアスへ。フォスとプエルトの間は普通に乗り合いバスが走っています。川を渡ってアルゼンチン側国境にて入国審査。審査官の横のテレビはつけっぱなし(サッカー見ながら仕事してる)。いかにものんびりした雰囲気です。

プエルト・イグアスは、全体的に茶色っぽく落ち着いた感じの街です。レンガ造りの建物や塀が多く、アスファルトも土ぼこりのせいか何となく茶色。ブラジルでは白い壁の建物が多かったので、それだけで街全体の印象がすごく違います。バスでほんの20分くらいの距離なのにこんなに変わるんだなあと思いました(国境ってそういう意味ではすごく面白い)。ほんとはここからアルゼンチン側のイグアスの滝を見に行くつもりだったのですが、すっかり街を気に入ってしまって、ぶらぶらと散歩して過ごしました。土産物屋をのぞいたり、英会話塾の老教師と子供たちを眺めたり。

念願のアルゼンチン・ステーキにもトライ。アルゼンチンは牧畜が盛んで、肉屋ではキロ単位でしか肉を売ってくれないというくらいに肉食な国だそうなんで、旅行前からどんなものかと楽しみにしてました。「アルゼンチンの伝統的なビーフステーキ」というのを頼んだら、出てきたのは10種類くらいの調味料のボトルとレンガみたいな赤身肉のかたまり!一瞬ひるんだけど、食ってみるとやっぱり旨〜い。じっくり30分くらいかけてなんとか完食。

2006.06.25 | Posted by | 2006年 南米

魅惑のリオから、南米最大の都市サンパウロにバスで向かいました。

バスの車窓から眺めるブラジルの風景は、実にさまざま。リオ郊外の古びたスラム街(だと思う。崖沿いにへばりつくように建っている崩れかけの家々)を抜けると、30分ほどですぐに緑の山岳地帯に入ります。ブラジル国旗に象徴される亜熱帯の濃〜い緑。時折ぽつぽつと民家らしき建物や足の短い農耕馬の姿を見かけるのですが、本当にこんな山深いところに誰か生活しているの?という感じです。さらにしばらくいくと唐突に小川が現れ、しばらくバスはその小川と平行して走ります。その後あたりは台地というか平地となり、小規模な集落が点在するようになります。白い壁に赤茶けた瓦屋根の家々が乾いた日差しにさらされ、中南米メキシコあたりの枯れた街といった風情。酒場で「テキーラ!」って叫びたくなるような。しかし、そこは大国ブラジル、さらにいくと外資系大企業(GMとかジョンソン&ジョンソンとか富士フィルムとか)の広大な工場がババーンと現れたりします。そして、おそらくそうした工場に従事する人々が暮らすのでしょう、それら工場群の近くには高層ビルのそびえるかなり大きな都市があったりもします。そんな光景を繰り返すうち、バスはサンパウロに到着しました。6時間ほどの道のり。

さて、サンパウロの雰囲気ですが、リオとはやっぱり明らかに違います。サンパウロでは黄色いサッカーのユニフォームを着てる人をほとんど見かけないし(カリオカはなぜかこぞって黄色を着ている)、また、ブラジルの人口の10分の1が集中するという大都市ゆえなのか、リオよりも貧富の「貧」の部分がどことなく目につきます。たとえば、地下鉄に乗ってたら乗客に何かを配って歩く妊婦がいました。見ると小さなビニール袋に飴が数個と小さな紙が入ってて、紙には「...(ポルトガル語)... 1R$」と書かれてます。どうやら、この飴を1リアルで買ってください、みたいな内容なようです。しばらくするとおなじ妊婦が回収にやってくるのですが、みんな無表情で飴の袋を返してました。物乞いじゃないのよ、というプライドのようなものをその妊婦から感じたけれど、いずれにせよちょっと胸の痛くなるような光景でした。

リオでのんびりしすぎたため、サンパウロに滞在する時間は1泊しかなかったのですが、どうしてもサンパウロの東洋人街「リベルダージ」は見てみたい!というわけで、さっそく地下鉄「リベルダージ」駅で降りると、、、そこには実に変てこな空間が広がってました。駅の階段に座りこんでしゃべりこんでる東洋系の女の子にまず驚いたのですが(池袋か!)、駅前の広場には普通に浅草寺の横で焼きそばとか売ってそうな日本でよく見かけるタイプの露店が、お祭りのようにぐじゃぐじゃっと立ち並んでます。通りに出ると漢字で書かれた看板が軒を連ねてて、日本や中国の食材やら日用品やらCD(氷川きよし)やら日本刀やらゴルククラブやら盆栽やら、いろ〜んなものを売ってます。横浜の中華街にも似た雰囲気ですが、日本とか中国とか台湾とかごっちゃになった「東洋」っぽさが、日本人の僕にはなんともうさんくさくて、ここはどこ??って感じのわくわく感がありました。客層はというと、東洋人よりは圧倒的にパウリスタ(サンパウロ人)が多いのにも驚きました。おそらく、ほかの地域に比べて物価が安いんだろうなと思います。炊飯ジャーをかっていく子連れのお母さんとかいましたから。そんなわけで、通りは買い出しの車(?)の路上駐車でいっぱい。

そんな東洋人街ですが、そもそも日本人のブラジル移民は、第1号の笠戸丸から数えて今年で98周年にあたるそうです。笠戸丸移民は現在でもただ1人ご存命(99歳)だと地元の日系紙(ニッケイ新聞)に書かれていました。また、もうすぐ移民100周年ということで、記念事業の進捗についてもやや在日協会批判的な記事が出ていました。巨額の費用(予算78億円)をかけて大規模なハコものを作るより、記念誌の作成など地道な活動にもっと力を注ぐべきではないか、巨艦大和の悲劇を教訓とすべき、云々。日系ブラジル移民は戦後移民が多いそうで、やはり今でも1世の心には戦争の記憶が色濃く残っているのだろうなあと感じました。ふるさとの記憶はある意味そこで止まっているんだなあと。母国の戦後の復興や近年の右往左往ぶりを、移民の人々はどんな思いで眺めているんだろう。

2006.06.24 | Posted by | 2006年 南米

ブラジル、リオデジャネイロに到着しました。
成田からアメリカ・ヒューストンでトランジットして、
なんだかんだで30時間近くかかりました。
(いやー、遠い)


南半球ゆえ今は時期的には冬なはずのリオですが、
陽気は日本の初夏って感じで、毎日すかっと気持ちよく晴れ渡っています。

リオの観光名所、白い巨大なキリスト像で有名なコルコバードの丘から
リオ市街をぐるっと一望することが出来ます。
複雑な海岸線、そそり立つ岩山、湾状の美しい砂浜、内陸には湖もあり、
そして、そういったダイナミックな自然の造形の間を埋めるかのように
旧市街のビル街や浜辺のホテル群がにょきにょきとそびえるリオの全景。
神の祝福を受けた土地とそこに生きる人々の活力とが見事に融合されていて、
その見事さに、うわー、これはずるいなー、と思わずにはおれません。




うわーずるいなー、の究極は、やっぱりリオの美しい砂浜。
有名なコパカバーナ、イパネマ、といったビーチでは、
カリオカからツーリストまで、多種多様な人々が太陽を求めて集い、
思い思いに日光浴にふけっています。
せっかくリオに来たんだから、わたくしもごたぶんにもれず、
白い砂浜を存分に堪能してきました。
あまり強烈でない、ほどよい日差しを浴びながら、
乾いた風に吹かれ、ザッブーンていう波の音をききながら、
ヒモみないな水着の娘さんたちの褐色の肌を横目に、
キンキンに冷えたビール(約150円)を片手に、
2日間も、ぼーっと何もせずに過ごしてしまいました。。。





砂浜の開放的でリゾートな雰囲気と対照的に、
旧市街の人々の活気はすごく刺激的で、街歩きも充分楽しめました。
(路地に入ると雑然としててちょっとアジアンな雰囲気)
人はみな陽気で親切だし、気のきいた音楽はすぐ近くにあるし、
ほんとリオ、言うことないっ!! ずるい!!



、、、ちなみに、サッカーのブラジルvs日本、
宿の近くのバーでブラジル人に混じって見てきました。
そんなに熱狂的な感じじゃなかったので身の危険は感じなかったけど、
とりあえずロナウドの同点ゴールのときは、ビールを頭からかけられました。
無事?ブラジル大勝で、試合後はみんなかなりフレンドリーでした。



2006.06.20 | Posted by | 2006年 南米

前回の旅から、2年が経ちました。

村上春樹は「遠い太鼓」の前書きで、自身が40歳を迎えるということについて、その心境を次のように書いています。『歳を取ることは僕の責任ではない。誰だって歳は取る。それは仕方のないことだ。僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終わってしまうことだった。それは仕方のないことではない』。

2年前の僕は、30歳を迎えるにあたり、多かれ少